小田実『タコを揚げる』(ある私小説)1979,途中者、思いが叶わぬ者の悲哀だろうか

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 「ある私小説」という副題のついた小田実さんの著作、タ
イトルは『タコを揚げる』、その実体験にまつわる感慨だろう
か。ベ平連も1979年にもう過去のものとなっていた。

 何かを熱烈に願い、心の振幅に翻弄され、目的地を目指し
ながら、なお到底、行き着くことの出来ないもどかしいその
現在地に悲嘆に暮れる者たちがいる、小田実さんはベトナム
反戦運動に身を挺してきた。別に小田さんは反米主義者では
ない。だが嵐が過ぎ去った地平に立って、現状から将来を予
測しようとする。それを私小説というフィクションの形で試
みる。それをタコを揚げる、別に調理ではなく、私小説をや
ろうというのであるが。

 タコを揚げるには必ず地面に立たねばならない。その地面
が平坦であるとは限らない。穴ぼこだらけの地面かもしれな
い。そこでは常に生きざまが問題を惹き起こす、もはやその
存在自体が悲歎と悲しみをもたらしてしまう。世界に逆らう
ためにタコを揚げようとした三つのケースを取り上げる。

 一つはベ平連介在の米軍脱走兵である。さらに当時はまだ
必ずしも市民権がなかったオカマ、次に、よど号はハイジャ
ックの赤軍派の面々、どれも目的に達し得ない。それを小田
さんは「途中者」という。ダジャレでなくて真実なのだ。は
るか後に「突破者』って出たけど。

 米軍脱走兵は北欧はスウェーデンに辿り着いたが、反軍の
闘いとも、存在の悲しみもない、酒と女と薬物に耽溺の生活
である。オカマも市民権は当時は希薄、というよりなくて、
完全な女性とはなり得ない。そこらの女よりはきれいだけで
はダメなのである。寄る年波にもこうしがたい。

 抵抗者であるという赤軍派、よりにもよって選んだ国が北
朝鮮、民衆は奈落の貧窮にあえぐ、革命が必要なのは北朝鮮
だろう。そこから革命を発信?すべてが現実離れである。む
しろ対極である。北朝鮮帰還の在日も着いた途端、絶望した
という。岸壁で若者が「船から降りるな、日本に帰った方が
いい」と絶叫していたという。

 全く途中者である。突破者になり得ない。

 だが小田実さんも途中者だろう、突破者ではない。市民運
動にか関わる者にいえるだろうが、右翼になろうが変わるこ
とはないと思う。それぞれに応じて、怒り、現実を否定する。
タコを手繰って地面に下ろせば国家権力、官僚の思いのまま
だ。

 だがタコである以上は揚げられねばならないという。地面
を這うだけではタコではない、ため息ばかりだ、回答はあるの
か、北へ行った連中の現在はどうだろうか。もう小田実さんも
かなり前に世を去っている。

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