何の才能もない人間が生きる意味
つまるところ無為無能、何の才能もない人間が生きる意味な
ど、どこにあるのか、ということである。人生はとにかく短い。
もっとも主観的には二十歳までは異常に長く感じられ、人生は
永遠に続くような錯覚を受けてしまう時期である。換言すれば
、二十歳までのこそある意味、人生のすべてといっていい重要
性がある。二十歳以降はあっという間の人生で、実際、百歳と
云えばえらく長寿のように思われるが、事実、そこまで生きる
のは至難だが、長さから云えば束の間である。しかも人間、衰
えは急速である。生きると言って自分で自分のことができ、生
活費もないと生きる意味も生きる資格もない。百年足らずで人
間、それさえ困難になってくる。瞬間のような人生でも冴えな
い衰えは避けきれない。
そのあきれるほど、実は短い人生で何か、業績を残す、は
容易なこと江はない。才能がない人間が短い人生で何かを成し
遂げる、のは全く、困難に極みだ。たとえの話、あの夏目漱石
の文学作品、数多いが亡くなったのはわずか49歳である。今ど
き49歳など、子供みたいなものだ、トルストイでも「戦争と
平和」を仕上げたのは41歳である、そえをいえば文学分野に限
っても才能のある者の業績、それをなした年齢は驚異的だ、む
論、何歳になって書き上げてもいいが、若くして書き上げない
と、生涯で、まとまった業績など残せないだろう。
とどのつまり、才能のない人間はかりに何百年いきようと「
レ・ミゼラブル」どころか、まともに読み終える本などあって、
ないようなものだ。
「人生五十年功なきを愧ず」などというレベルでもない、残し
たものは不評と醜態のみ、なのだからこれでは絶望せざるを得ま
い。
だからこそ、というのもなんだが、無為無能、才能なき人間の
生きる意味が問われなければならない。恥を忍んで生きるだけ、
堂々巡りの愚にもつかない悩みに捕らわれて無意味な時間を費や
す、こういう生き方は潔く捨てる以外にない。世間的に何も評価
さえる業績など残せず、そのような秀でた業績と無縁であっても、
生きることに手段化されない、紛れもない自分というものを常に
探す努力だけは必要である。
確かにこの世は才能がないと、・・・・・例えば人を惹き付け
る漫画を描けと言われても才能の有無で天地の差だ、人を惹き付
ける作詞をやれと言われても、やはり才能なき者には不可能な話
だ。だが、……才能がなくとも可能なことがなお残されている、
私小説ならだれでも書けるだろう、自分の体験を綴ればいいのだか
ら、だが創作で濃密な表現を、状景描写、心理描写を込めた作品は
至難の業である。だが多く作家はそれを書いている。・・・・・
確かに才能の有無はある、だがそれだけか、といわれたら、やはり
文学分野なら十分、努力で可能となる部分はあると思える。
「あゝ、人生は玉葱をむいでいくようなもの、終わってみたら、
中心には何もなかった」という感慨だけで人生が終わらないよう、
「自分探し」の視点を失うことがないよう、幻滅と絶望に人生が
終わらないよう、縋りつく一筋の糸を見つけること以外にない気
がする。
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