大谷藤子『青い果実』1959,作者の数少ない長編、一隅の戦争被害

まず大谷藤子とは1901~1977の女流作家、埼玉県生まれ、
三田高女卒、1927年、昭和2年に海軍将校、井上良夫雄と
結婚、呉市に住む、1933年、昭和8年「日暦」を高見順、円
地文子らと創刊、文学的キャリアのスタートとなる、その前
年、1932年、昭和7年に離婚し、東京に戻っていた。1934年、
昭和9年に雑誌『改造』の懸賞小説に『半生』が入選、翌年の
1935年、昭和10年の「須崎屋」、これらが出世作となる。
1951年、昭和26年(wikiでは1952年とあるが実は1951年』
「釣瓶の音」で第5回女流文学賞、1970年にも「再会」で女
流文学賞、1977年死去、・・・・・だが作品は多くはなく、
全く地味な存在だった。
で、その1959年、昭和34年の長編「青い果実」である。
戦争が生んだ悲劇で「若くして散ったというような、世間
の目を引くようなこともなく、それは散ったに等しいほどの
ことだけれど、人知れず悲しみと傷痕の中にいる」という
、まさに歴史に残らない片隅の線s脳被害である。
伊作は食料不足で骨と皮にやせ衰え、戦場から帰ってきた。
重傷をって命からがらの帰還だった。だた治療で輸血された
血の中に忌まわしい病毒があり、それが感染し、勝手は誰にも
優しかった彼が別人のように気難しくなし、頼りない人間にな
っていた。だが町医者にかかって何とか回復の途上にあり、結
婚し、子供も生まれた。元来が村の名家であり、農協の組合長
に推された。
だが伊作が組合長になって急に組合に赤字が増え、「組合長
の頭はちょっとおかしい」と噂されるようになった。病毒が徐
々にぶりかえしてきたのだ。家庭生活にも無関心となって、あ
きれるほどの浪費家になり、毎晩のように泥酔して帰ってくる
ようになった。組合の若い事務員、清子を愛人として、ついに
は家にまで連れてくるようになった。腹に据えかねた妻の島子
は10歳になる子供を残して実家に逃げ帰った。
それまでの姑の茂子と妻の島子の確執、兄思いの妹、三恵子
など、それぞれの思惑、心理を作者はかなりこまごまと表現し、
伊作の不幸が家庭だけではなく村全体にも不幸が広がっていく
さまを静かに語る。
基本は戦争に原因が発しているが、その視点と語り口は、表
向きの人目を惹くような作品が多い中、貴重だと思うが、その
文学的手法の地味さはこの作品でも貫徹されている。悪くはな
い、悪くないどころか珍重!されていい作品だが地味である。
この作家のそれが結果的に幸運なのか不幸なのか、どうか。
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