生島遼一『春夏秋冬』1979,読者あってこその文学という信念、日本文学の読み手としての読書回想

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 フランス文学、バルザック、フローベール、スタンダール
などという世界的な大作家の数多くの名訳を世に送ったこの
偉大なるフランス文学者、であるがもう一つの顔、というの
か側面が「日本文学」の読み手としても知られていた存在と
いうことが挙げられる。それは著者の「書く人がいなければ
文学は生まれないにせよ、読む人がいなければ文学は成立し
ない」という信念である。織田作之助を高く評価し、世に出
すことに大きく貢献したのも著者、生島遼一さんである。
したがって著者は読書を最も基本的な人生の体験として生涯
を送った方である。

 この本は長年にわたる著者の読書の回想を中心として、いわ
ば心の赴くままに書き留めた四季折々の感想、想いを綴った
エッセイがまとめられている。

 少年時代に、著者は祖父を尋ねて愛用の銀の文鎮をもらった
ことがあるという。時が移ってその銀の文鎮の表面は徐々に酸
化し、鈍く曇ってきたがその裏側を小刀で削ると、えもいわれ
ぬ美しい輝きが現れたという。日常生活で無感動に生きている
「この小刀で削って現れた地金の輝きのようなものを与えてく
れる」それが文学だったと著者は回想しているのである。

 不意に眼を打つ銀の輝き、そのように忘れられない充実した
読書の日々が思い出され、本棚からかっての愛読書を抜いて再
び読んだという。読み返して著者は追体験を書いているのだが、
過去から現在へ、現在から過去へと反復する時間の中で読み手
として文学の真髄に引き込まれてゆく。

 読書とは、書かれている内容をそのまま受け取ることではな
いという。「本を読むという行為の中には、本来、もっと自由
な、さらには不条理な不合理なものさえ含まれている」、生島
さんの読書回想が並の読書回想と異なるのは、読書に含まれる
るものと自己の体験が一体化していること、だろうか。

 読書に疲れると京都在住だった生島さんはその自然や古い
仏像に目を向けた。「無心の表情で立つ古代の仏像の前にいる
と、この年齢になっても静まらぬ心のさわぎがしばらく消えて
、土から生まれ土にかえるという人間の運命が素直に受け取れ
る気分になってくる」、奥比叡にって白雪に覆われた比良連峰
を眺めて帰る。またの日には、雪景色の中にほんのしばらく佇
むたえに大原に行く。

 このような生島さんの春夏秋冬が、読書の回想の中に、さわ
やかに、また時にはペーソスを帯びた文章が綴られていく。

 読書を愛好するひとにはまず見逃せない本、端的にそう言え
る。

 

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