高橋義孝『幸福になる条件』1957,いわゆる「高橋理論」の舞台裏はフロイトの精神分析?

評論界のいわば名うてのくせ者とされた高橋義孝が1957年、
昭和32年に書き下ろした「幸福論」である。
「われわれの体から排泄されるわれわれの自身の糞便の臭
気が、われわれにとって、ひどく不快だということはないの
に、他人の糞便は臭気は何ともやりきれない。・・・・・、
なぜそうなのだろうか?」
という具合の書き出しで始まる「幸福論」である。だから
「幸福論」に何かバラ色めいたものを期待する読者の意表を
つく、多少、いたずらめいた仕業と思いきや、著者はここか
ら大真面目にフロイド流の精神分析の問題に入っていくので
ある。
第一章「他人の糞臭について」以後の章は「エゴイズムの
渋面」、「すべからずの裏側」、「「祭礼の前身」、「女性
の敵としての文化」等々、いかにも、一筋縄ではいかない高
橋義孝という人物の魂胆がうかがえる。内容はフロイドの「
文化の居心地の悪さ」、「トーテムとタブー」のあなり忠実
な紹介と、割と自由な評釈で貫かれている。
すなわち、人間における嗅覚器の退化とこれに代わる視覚
器の発達、幼児欲求の潜在意識化、タブーと強烈な誘惑、愛
の衝動と誘惑、愛の衝動と市の衝動などフロイト学説の中心
的な考えに沿いながら、谷崎潤一郎の『鍵』、志賀直哉の『
和解』森鴎外の『科のように』、与謝野晶子の『君死にたまふ
ことなかれ」、ゲーテ『ファウスト』、カロッサ『指導と信徒
』などにふれて「文化」と「知性」を手に入れた人間が代わり
に「愛」と「生」の強烈な衝動を鉄格子にいてておくしかなく
なった場合、特に現代人には「灰色の幸福」しか望みえない、
というのだ。「幸福論」でございます、と言いながら実際は
フロイト学説の紹介に過ぎないのではないか。フロイト理論
の展開など高橋義孝から聞いても仕方がない。その文芸評論、
社会評論の舞台裏がフロイト理論だったということであり、
本当の心理学説でなく、文学的な理論的根拠を聞きたいもの
だったが、「幸福論」を読んで確かに「幸福」になれないの
はよくわかった。
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