金日成はなぜ異常に死を怖れていたのか?一介のソ連軍大尉が「将軍」の称号を得るにいたった理由


 まず金日成とはいかなる出自であるが、その前にはっきり
させておくべきは、「金日成」は1920年代から抗日戦に活動
した伝的な人物である。だが純正で正確な「金日成伝」など
なかった。間違いなくいえることは1920年代から活躍という
から1912年生まれというから自称「金日成」本当の名は金成
柱が「金日成」である道理はない、だから「金日成は偽物か
どうか」という議論自体が、基本的にバカバカしくて成立し
ない、つまり「議論以前」ということである。純正「金日成
」というものが全く明瞭ではないが、年代的に1920年代に
実働だから「金成柱」あるいは「金聖柱」は年代的に架空の
伝説的人物になり得ないことが明白である。

 金成柱の青年時代までの素行は甚だ問題があったと伝えられ
る。金成柱はともかく満州で抗日パルチザン活動を行ったとは
せいぜい率いた人数は数十名以下であった。その抗日パルチザ
ンが1942年、ソレン極東方面軍88独立旅団へ編入された。ソ
連は来るべき満州での日本軍との対決に、抗日運動が取り込め
ると考えていた。金成柱のソ連軍での地位は必ずしも明確でも
ないっが、大尉扱いだったという説はあるのは事実だ。最大の
不思議は日本降伏後、ソ連軍が朝鮮半島北半分を占領した。
その時、ソ連軍はなぜ一介のひ弱な青年大尉でしかない金成柱
を集まった民衆の前に「金日成でございます」と立たせたのか、
である。

 なお北は公式的に1932年4月25日、「金日成」が「朝鮮人民
革命軍」を20歳で創建したとあるが、全くの荒唐無稽である。
そのような部隊は存在していない。金成柱はせいぜい数十名を
率いていたにすぎず体力が非常に劣っていた、この点は重要で
ある。見るからに貧相で不健康だった、後年、威風堂々の演技
上手になった、が「実戦」に向いていなかった、体力がとにか
くなかった、のである。だがソ連軍は編入に際し、金成柱に
「大尉」の称号を与えた、挙げ句に「将軍」の称号をつけた。
これは非常に非常識を極めることだったのは云うまでもない。
ともかく全てはソ連軍の金成柱への不可解な寵愛によるもので、
朝鮮人民の意志mによるものでは全くなかったことは事実であ
る。若造でしかない金成柱(戦後の金日成)がかくもソ連軍に寵愛
されたのは、ソ連軍に編入された抗日パルチザンはソ連軍への
反感を隠せず、その軋轢は深刻なものだったが、金成柱の徹底
したソ連軍への忠誠の姿勢、がその要因の最たるもの、だった
はずである。

 金成柱が反ソ的な仲間、先輩を次々にソ連軍に密告したこと、
これがソ連軍の「寵愛」を引き出した最大の原因である。これが
その後、北朝鮮の極端な密告社会のi要因となった。ソ連軍の秘密
情報i員となった金成柱はソ連軍幹部に取り入るのが上手かった。
「密告」で人望ある歴戦の先輩を引きずり下ろし、ソ連軍に
「密告」で忠誠心を示して「将軍」の称号を得た下っ端の、
金成柱は「金日成」の名前まで与えられた、読みが本名と同
じだったからでもある。北朝鮮の収容所にある小学校=人民
学校の国語は「密告」を強制的に書かせることだ、金成柱の
密告による成功体験は現在の北の本性とさえなっているのだ。

 ソ連軍に「将軍」に取り立てられ、民衆の前に「金日成」
として登場する前の金成柱、背広、革靴のいでたち

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 体力には乏しかったが、「頭が良かった」、その頭の良さは
抗日パルチザンを密告で蹴落とし、若造の自分が成り上がると
いう「世渡り上手」であった。大尉の称号を与え、将軍の称号
までついに与えたソ連軍の中心人物は情報部長のソローキン少将
だった。ベリヤの信任が厚かったというくらいの秘密警察的な人
物で抗日軍の連中は信用できないとボヤいていたが、密告をくり
かえし、ソ連に忠誠を誓う金成柱(金日成)はソ連軍にしたら何よ
り「信頼できる」人物、とみなされたのである。実戦にたけた、
はるか抗日軍の上官がいたのにである。この「密告て蹴落とし、
我が身を引き上げる」というコンセプトは北朝鮮社会のコンセプ
トになったのは自然だったはずだ。単にソ連軍に密告で取り入っ
って抗日闘争の功績ある先輩の多くを蹴落としただけでなく、
戦後も軍事法廷を乱用し、反逆罪などをこじつけて民族解放
闘争に功績のあった多くの先輩、人々を抹殺し続けたのだ。
他方で自分だけが神格化、である。どのような国家か、もはや
個人的エゴが極まれり、窮極の公私混淆であろう。なるほど、
「最高威厳」というのもわかろうというものだ。自分ひとりが
のし上がるためには、また自分をいささかでも脅かすと猜疑心
を金日成が抱いた人物は手段を択ばず容赦なく、蹴落とし、葬
り去る。今に至るもこのコンセプトが貫かれている。

 戦前も戦後も金成柱、自称金日成より経験、実績ではるかに
格上の闘士が数多くいた、だが密告でソ連軍に巧みに取り入り、
「将軍」金日成後もなお数多い歴戦の実力者を追い落とし、我が
身のみ尊しとするための権謀術策、粛清に全てを費やした。この
歪んだコンセプトがそのまま現在の北朝鮮の密告万能、粛清乱発
、収容所群島化につながっているのである。

 だが、金成柱が実戦は体力に欠け、おぼつかなかったが、我が
身を引き上げる巧みな策略に富むという点で「頭」がよかった。
この「頭」の良さと「エゴ」が戦後の北朝鮮の流れを決めたこ
はいうまでもない。

 そうして若造のみで「将軍」として朝鮮民数の前に「金日成」
と自称して姿を表した金成柱は人々を唖然とさせたのは云うまで
もない。

 ここで金成柱は基本的に体力に欠けていた、こと、病身でもあ
ったことは重要である。なんとも治療のしようもない皮膚炎に
恒常的に襲われていた。体力より頭、策略で乗り切る、暴力の
行使には秘密警察を使って容赦しない、8月宗派事件も乗り越え、
遂に絶対的な国家の首領となった金成柱、自称「金日成」は常に
皮膚炎になやまされ、また飲酒量も多く肝臓も悪くしてしまった。
猜疑心こそが我が身の安泰を生むというコンセプトでの恐怖国家
づくりだったが、ますます強まる圧倒的権力自らの神格化、だが
我が身の健康の不安、さらに皮膚炎、その不健康さは首の後部に、
巨大な瘤を、コブができるに至った。

 我が身の絶対的権力、だがそれゆえにいつ崩壊するかの不安は
ますます秘密警察国家、収容所国家、密告社会を生んだが、しか
し、金日成自身の体に広まる侵食、肝臓の不安、だが外面的に
一目瞭然の首の後ろの醜悪なる瘤は口には出さぬが限りなき恥辱
であった。さらにその脂肪腫のような瘤がいつ悪性化しるのでは、
という不安に常に襲われていた。こぶは加齢とともにますます巨
大化した、容易に切除できる代物ではなくなっていた。我が身の
みが成り上がり、権力獲得から絶対的権力へ、さらに民衆の徹底的
な洗脳で神格化をはかり、それさえ成功したが、逆に権力基盤の
弱体化、権力喪失への不安、猜疑心に常に駆られ、我が身の病、つ
いには崩壊に怯える精神病質をもたらす結果になったのは否めない。
首後部の腫瘤は誠にその生涯と精神の見苦しい帰結と申さねばな
るまい。

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 ソトに向けては収容所国家、徹底した秘密警察国家だが、我が身
の不健康さ、見にくい瘤の悪性化への不安、絶え間ない皮膚炎の苦
しみ、そこから

 中国などから高級な漢方薬を際限なく取り寄せ、また現代医学の
最新療法を常に行わせていた。感染症への不安は大きく、要人、海
外からの賓客との握手では

 そばに常にアルコールのスプレーをおいておき、握手のあとは
まならず即座にアルコール消毒を行っていた。

 自らの権力はそのやり方であたかも盤石だ、長い寿命が欲しい、
まして健康に不安だ、死にたくない、千年でも万年でも生きていた
い、と願っても与えられる寿命は、北朝鮮の悪環境の人民の寿命より
は長いにせよ、日本の市井の市民、男性の平均余命と同じでしかなか
った。あらゆる権勢も寿命を伸ばしてはくれないのである。

 密告で我が身を引き上げさせた世渡り上手の金日成だった。自ら
の神格化には成功し、新興宗教教祖のようになった。だが見にくい
瘤は除去も出来なかった、悪性化の不安に怯え続けた。

 この人生をいかに評価すべきか、多くの犠牲を生みすぎただけで
はないのか。

 

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