内田百閒『無伴奏』旺文社文庫、内田百閒先生は本当にひねくれ者だ

ダウンロード (5).jpg
 1980年過ぎから内田百閒先生の著作は旺文社文庫からかなり
出版された。これは非常に貴重だが絶版で現在は高値がついて
いる。この『無伴奏』はエッセイで1953年の初版、でも・・・
・・・百閒先生(先生をつけないわけにはいかない』のこの随
筆集、前作はほぼ一年前の「阿房列車」、国鉄職員だったあの
中村武志さんに引率されての汽車の旅行記、これは旅行記で一
貫しているが、『無伴奏』はおよそとりとめのない、という例
によってである。ただし大部分には最後の「燕燕訓の一」、「
燕燕訓の二」という具合で記されている。意味は不明である。
何のことやら分からない。少なくともこの本に、その意味の説
明は見当たらない。そういうなら、確かに、それぞれ何か、
教訓を含んでいるような印象は受ける。だがその感じ方は、そ
れぞれの読者の自由である。

 でも百閒先生は相当にひねくれ者、偏屈だ。もう皆、年金と
名誉の「芸術会会員」になりたがり、そのため血道をあげる、
「高名」な方が多いというのに百閒先生は「いあやだからいや
であります、つまりはいやということです・・・」とすげなく
入会勧誘を断ってしまう。

 小学生のころからタバコを吸っていた、毎日起きるのは昼過
ぎてであった。

 法政大学の教授時代は、同僚がある日、突然、口髭を切り落と
してきた。それを掴まえて怒る。「あなたは勝手に無断で御自分
の口髭をそり落として済ましているんでしょうが、実はそれは許
されません。髭は自分の顔にあります、それを撫でたり、ひっぱ
たりして自分のものと勘違いしている。明らかにそれは人見せる
ためにあるわけです。見せる人は多いが、私な毎日といっていい
くらいそれを見ている。昨日まで髭を見せる対象に私をこき使っ
ておきながら。一言のことわりもなくそり落としたのはあまりに
不見識な勝手な行為だ。こんな勝手なことはない」

 全く百閒先生の屁理屈も徹底している。国鉄総裁が就任の時、
「サービス絶対主義」と云ったら「絶対にしない」ならわかる
が「絶対にする」はおかしい、まさか絶対にサービスしないわ
けではないだろう。それでは「サービスが絶対である。外のこと
はどうでもいい」という趣旨かもしれない。

 とにかく学識豊かな点では人後におちない百閒先生だ。奇妙な
当て字ばかり考えだす。「摩阿陀会」、「俺を死ぬと思っている
やつが多いが、まだまだ死なないぞ、まあだかい、だ」で摩阿陀
会を呼ぶというのだ。

 読んで得もないが損もなさそうな随筆だろう。

この記事へのコメント