金日成(金聖柱)前半生、なぜ地上地獄をもたらした人間性

抗日の伝説の英雄、金日成の名が朝鮮民衆の口に上り始め
たのは1909年ころだという。無論、自称金日成の生まれる前
である。で、自称金日成の本名は「金成柱」と北は公式に発
表してるし、日本の近代歴史学者も「金成柱」としているが、
実際の本名は「金聖柱」である。なぜ「金成柱」にしたのか
というと普天保の闘いのヒーロー、第6師団長の金日成と一
致させるためであった。これは朝鮮伝統の命名法を知らない
と理解できない部分がある。
ともかく現在の北朝鮮が「民主主義人民共和国」と名乗り
ながら国内に大規模な収容所を何箇所も設け、核開発は収容
所との関わりなくして考えられない、非道の極みだが、この
ような地上地獄をもたらした自称金日成、本名、金聖柱とは
いかなる経歴を持っているのか、である。共和国といいなが
ら最高権力者が世襲、まあ日本も政治家の世襲は数多く、反
省すべきだが、・・・・・というのもおかしなことである。
自称金日成の本名は金聖柱、1912年、平安南道大同郡古平
面南里の生まれ、小学三年から五年までこの地の彰徳小学校
に通った(1923~1925)
彰徳小学校で同級だったという趙義俊氏、キムジャンファン
氏、の証言がある。
キムジャンファン氏によると
「成人し、私は奉天で建築の仕事に携わっていまhしたが、
その時祖国が解放され、平壌に帰ってみると金日成将軍があ
の金聖柱と聞かされ、驚きました。私は1948年11月、南げ逃
げました」
趙義俊氏
「解放の翌年、1946年、私が経営の平壌同友ゴム工業にボイ
らー技士として働いていた孫興錫から平壌に来た金日成将軍が
金聖柱ときき、腰を抜かしました」
「私が小三のとき、金聖柱は四年でした。当時は、三年と四
年は同じ教室でした。金聖柱か快活で何でも先頭に立つ性格で
した。聖s系は中くらいだったと思います。五年のとき、彼は
満州にいる父親のもとに行きました。1925年初頭でした。以後、
消息を聴いたことはなかったんですが。それが金日成将軍として
人前に出たんだから驚いたなんてもんじゃないです」
1925年に金聖柱は母の実家から通っていた彰徳小学校をやめ
て、両親のいる満州に移ったのは事実であるという。満州の撫
松というところだ。1926年に撫松からかなり離れた華成義塾に
通ったことも事実である。
義塾の場所は南満州で、朝鮮の民族団体の正義府の本拠があっ
た。義塾はその正義府の正規の教育機関だった。金聖中はまもな
くそこも退学している。理由は父親の死亡だ。その志望の理由は
金聖柱の関わった独立運動団体に共産主義が広まり、漢方医だっ
た父親ですが共産党には冷淡だった。そこで共産党員に殺害され
たのである。
父親はなくなり、もう金聖柱の学業はそこで終わった。残した
田畑もなく、別に技術もない金聖柱は弟二人、母を抱え、生計を
立てるすべもなかった。おとなしく家にいつく、という性分でも
なく、金聖柱は当時、撫松一帯を荒らし回っていた馬骨マコルと
いう匪賊の群れに身を投じた。彼らは共産主義運動と称し、強盗、
略奪を生業とした。
匪賊、馬骨一味の跳梁が明らかになり、正義府では中国人の
朝鮮人排斥を予防の為、馬骨一味の討伐を始めた。そのとき馬骨
にいた年端も行かぬ少年を捕まえ、尋問したら金聖柱であった。
その不遇を哀れんだ李鐘洛は、金聖柱を諭し、奉天に連れ帰り、
平旦中学へ入れた。これは金聖柱の人生の大きな刺激になった。
だが金聖柱はその平旦中学もすぐやめた。退学させられた。その
後、別の中学に入るまでの足取りは不明である。
金聖柱はその後、安図の警察隊長の中国人の養子となって、家族
と安図に移った。朝鮮の少年団体、吉林少年団に入った。
証言「当時私は、13歳位でした。金聖柱は3,4歳上でしたか、よ
く吉林の山に入って遊んだものです。独立運動の影響で遊撃戦遊び
をしました。隊長は金聖柱がよくなっていました、、割と長身で太
りぎみでした」
1929年ころ、金聖柱は吉林大門外にある朝鮮人の家に集まるよう
連絡を受けた。集まって独自の共産青年会の組織を密談した。定期
的に会合を持った。
だがこれを日本官憲が嗅ぎつけて、大部分が逮捕された。金聖柱
は逮捕をまぬかれた。彼は吉林を抜け出し、馬骨を征伐した李鐘洛
を頼った。
李鐘洛は共産主義化していた。李は金聖柱に「参士族」という一番
下の階級を与えた。李が手を付けたのは農民からの税の取り立てだっ
た。それは李の軍勢の資金となったから、みかじめ料のようなものだ
った。新参の金は忠実に動いて、農民から無慈悲に収奪を行った。
なお金聖柱が吉林監獄に収監されたことはない。
金聖柱は再び李のもとに戻り、朝鮮人集落を行き来していたが、
1930年11月ころ
金聖柱は女性問題で騒ぎをおこした、金聖柱と隊に文時宣というも
のがいたが、彼の姪を金聖柱が丸め込み、痴情関係を結んだ、金聖柱
が18歳である。村では騒ぎとなったが、相手が武器を持った気性の荒
い金聖柱なので文一族はどうしようもなかった。
五家子滞在時の金聖柱は農家の手助けはせず、気性の粗さは残忍と
なって、一連の殺傷事件を起こす。
税の支払いを拒否した農家に仲間と押し入って、主人を絞殺した。
証言:李善一氏は金聖柱が中国人二人を反動分子と決めつけ、叩き
殺すのを目撃している。銃を使わず、人の死を楽しむような残忍さで
あった。この事件で金聖柱は逮捕されているが、うまく逃亡している。
五家子唐鐘を巻き上げた、金聖柱はソ連に行くつもりで、最初は
ハルビンに足を向け、中国共産党から認められる後席も経歴もなく
ソ連留学の推薦は得られなかった。ソ連行きの計画は砕かれ、しかた
く金聖柱は撫松に行くこととした。二人で撫末に向かったが、拳銃を
買い込む資金を巻き上げた。
金聖柱と仲間の張亜青はそのあたりのチンピラを駆り集め、徒党を
組んで中国人宅に押し入って金品、銃の強奪を繰り返した。
この悪行は朝鮮革命党に知られ、金聖柱逮捕のため10名が派遣され
たが、これを気づいた金聖柱は睡眠中の革命党の10人を襲い、皆殺し
にした。
惨殺事件以降、金聖柱は撫松を抜け出し、放浪したがどこにも身を
寄せるところはなく、結局、朝鮮革命党に泣きついて許された。「降
者は不殺」の原則だった。司令はしかし金聖柱を信用はしていなかっ
た。武器を渡さず、任務を与えなかった。金聖柱は自分が全く信用さ
れていないと知り、密かに朝鮮革命党を抜け出した。その後の明確な
足取りは現実的に不明あである。1932年夏に、朝鮮革命党を抜け出し、
次に人前に姿を表したのは1945年10月、平壌で「金日成将軍」として
であった。
だが何も情報がないわけでもない。
1940年12月、野福討伐軍に追われた抗日軍の敗残兵300名あまりが
ソ連領内に逃亡した。。
この逃亡敗残兵はソ連極東警部司令部(ソ連内務省管轄)に収容され、
将来起こるソ連、日本の戦闘に備え、スパイ工作要員として訓練を受け
た。
その中の一隊が第二方面軍長「金日成」(金聖柱ではない)に率いら
れた20人ほどの部隊だった。その隊員に金聖柱がいたのである。
当時、ソ連秘密警察の帝王、ベリヤは「抗日軍の朝鮮人から金日成
を選べ」と云うお達しがあった。にせ金日成捏造はソ連の方針であっ
あった。なぜ抗日軍のリーダー的存在でもない金聖柱が、金日成に抜擢
されたのか?
実は平壌に来た、終戦後、平壌に来た金聖柱は当初、金英燎という偽
名を使っていた。その金聖柱がソ連のロマネンコ少々の筋書きによって
「金日成」都市は初めて紹介されたのが1945年11月、平常市内の料亭「
たまや」であった。平安南道人民に委員会に「金日成だ」と紹介された
のである。
ここから「金日成」劇場が始まった。ついで11月14日、民衆の前に
「金日成将軍歓迎平常市民群衆大会」と銘打たれての催しが開かれた。
顔見世興行である。
なぜソ連が金聖柱を金日成に抜擢したのか
①ソ連の政策通りに操れる人間と踏んだこと、ソ連軍に密告を
数多く行い、ベリヤ影響下のソ連軍にその秘密警察的性格が買わ
れたこと。抜擢したのはソ連極東軍の情報担当である。
②朝鮮革命等の下っ端の隊員でしかない金聖柱を抜擢したのは、
さらに何かないといけない。
金聖柱を金成柱と替えれば金日成と同じ発音になる。
「金日成」は誰かが、そもそも特定されていない。年齢的には
あり得ないが、
とにかくソ連の決定だから誰も逆らえないし、もし逆らうもの
がいたら金聖柱、自称、金日成に粛清させたらいい、ということ
であり、その例は枚挙に暇がなったのもその証拠である。多少で
も素性を知る、どころかバッジを汚したくらいで「最高威厳を
冒涜した」として片っ端から収容所送り、であった。ソ連から
「金日成」に与えられた最初の指令はソ連の意向に添わない者の
抹殺、殺害であった。そのコンセプトは国家コンセプトになった。
また何よりも持って生まれた類まれな残虐で非常な人間性である。
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