埴谷雄高『影絵の世界』埴谷とロシア文学世界との関わり

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 自己の読書体験を語ることが、すなわち自己の人生を語る
こととなる、よほど読書に没頭という人ならそういう人もい
るかもしれないが、埴谷雄高はまさしくそれに該当するとい
うことのようだ。ある書物に感動し、影響を受けた、その時
代、場所がある、ということなのである。「影絵の世界」が
さらに埴谷雄高の人そのものを表す言葉とさえなっている。
その影を作らせる光とは何か、である。

 ここでは埴谷雄高の主としてロシア文学の読書体験が語ら
れる。確かに埴谷雄高と云えばドストエフスキーであるから。
ただし、岩波新書「ドストエフスキー」の執筆を依頼されて、
ついには書き上げることができなかった埴谷雄高である。

 ロシア文学の特質にふれた見解、すなわちエリートも庶民も
同じように人間存在の奥底に激しい探求を行うという見解は、
まず妥当だろう。しかし、埴谷が幼少から接してきた演劇、映
画、音楽などで接したロシア的世界のイメージを背景としなが
らロシア文学の世界にのめりこむにつれて、ロシア文学の特質
は、埴谷自身の存在体験に密着した、特別な意義を持つように
なったようだ。したがってロシア文学の世界がそのまま、埴谷
文学の世界になったということだ。

 だが、これは単に読書体験ではなく、一人の人間の精神史と
もなっている。例えば、青年時代の政治的活動と寝台の中で
の「宇宙論・悪魔論」の妄想とが対立するドラマでもあるし、
マルクス主義の世界としての「理論の世界」とアナーキズムの
情念うごめく「夜の世界」とのドラマ、あるいは「理論の世界」
と「影絵の世界」のドラマ、ということだろう。

 それらを要約し、思索(論理』と文学的創造(詩)の交錯す
るドラマであるならば、それが埴谷文学の特質そのものだろう。

 思惟の世界のみではなく、埴谷が農民集会での政治的活動の
思い出、特に、ぶち込まれた留置場や刑務所の想い出の記述が
印象的である。

 ロシア文学は世界文学屈指の深さを持つ、と思える。ロシア
文学は著者の生活の変化に由来の新しい存在体験に常に応じた
ばかりではなく、埴谷は自己の世界にもはやロシア文学を見出
すほどでらう。だから「影絵の世界」とはロシア文学の世界の
みならず、そこに耽溺した、埴谷の生活も合わせた二重の意味
を持つはずである。

 影絵の世界、とは私はこれは自虐だと思えるが、またそれは
相当に特殊な世界である。何より、近代日本のファッショの中
に身を置いた、大正末期から昭和にかけての知識的青年の世界
である。現在より、読書というものがはるかに大きな意味を持
った時代である。日本独自の精神史ともいえるはずだ。

 

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