何よりも本人にとって、寝たきりでは生きている意味はない(優生学的思想には反対だが)
生きるということはサバイバルであり、ありとあらゆる
試練、災難に打ち勝つ以外にないわけである。ところでよく、
「100歳以上生きる」とか「120歳までは生きる」という人が
いる。実際、人に備わった寿命で100歳は至難であるが、地方、
農村では100歳以上も今は特別珍しくもないが、105歳はちょっ
と超稀れである。要は人間の寿命の限界はその辺りということ
だが、問題は、「寿命は生活資金の続く範囲内」という鉄則で
る。当たり前なのだが、これを往々にして忘れる?人もいる。
自分の寿命とは生活資金の続く範囲内という当たり前の鉄則だ
が、逆に何千年でも生きられそうな大資産家、富豪でも寿命は
貧乏人と基本、変わるわけではない。しょせんは、ままならぬ
人の定めである。
だがいつまでも元気に動け、働けたらいい、がそうでないケ
スは多く、また「もうリタイアして悠々自適で暮らしたい」と
考える人も少なくないだろう。高額年金のサラリーマンなどは
そうだろう。・・・・・・
だが人は衰えるものだ。個人差はあるから節制と鍛錬で克服
可能だが、皆そうなるわけでもない。寝たきりになる人は多い、
特に疾病はなくとも衰えでは半ば寝たきり、転んで骨折、それ
から寝たきりとか、人工透析で実質寝たきり、・・・・もう働
いて生活費を稼ぐなどは不可能、もちろん高額年金の人や、非
常に富裕な人なら生活費、介護費用は可能だろうが、・・・・・
単に寝たきり、自己のなしたいことも何も出来ず、ただほぼ
無活動に寝たきりとなって他人を介護で煩わせるなら、資金が
あっても生きる意味は、何よりも自分にとって生きる意味はな
い、というほかない。生きるとは目的、別に金儲けを卒業して
も、自己のテーマを追求することができなければ、生きる意味
はない。といって「この世に役立たない人間は安楽死させろ」
という優生学的ファッショには断固反対する、反対するが、
しかし本人から見れば人に迷惑を欠けて自分自身のテーマも
何も追求できないようなら、もう生きる意味はないというほか
ない。
だから生きている以上は節制に励み、ほぼ最期まで動けるこ
とは生きる人間の義務である。寝ついて一週間ほどで亡くなる
が理想だろうか。聖人弁護士の家本為一先生がそうだった、な、
・・・・・・。
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