永井龍男『石版東京図絵』1968,後半においてコンセプト崩壊、構成破綻
昭和42年、1967年だったか、毎日新聞は野心的な文学の
企画、「現代の文学」?と云うタイトルだったか、十人を
超える作家の連載小説をその企画のもとに計画し、新聞に
デカデカと連載予定作家を載せた。井上靖、水上勉、三島
由紀夫、永井龍男、・・・・・他にも数多くの作家がいた
が忘れてしまった。この企画で首尾よく作品を完成させた
のは井上靖『夜の聲』、永井龍男『石版東京図絵』、水上
勉『桜守り』、・・・・・水上勉は企画発表時「この連載
を代表作としたい」と意気込んでいた。三島由紀夫は乱入
割腹でそもそも参加できず、最初が井上靖『夜の聲』だった
がちょっと変な作品、読んでいるうち、失望した。永井龍男
『石版東京図絵』題名からして古色蒼然で大丈夫かな、と感
じた。
そこで「石版東京図絵」、一個の長編小説としてみたら、こ
の作品は到底、成功作とはいい難いだろう。永井さんの名作は
ファンが多いが、この作品は毛嫌いされていると思う。前半と
後半で筆の密度が全く違っているからである。
だいだい、日露戦争前後からの東京下町の風物詩を描くと
いうのが最初のコンセプトであったと思う。永井さんは川上
澄生の「明治少年懐古」をまず最初に述べている。その出だ
しから悠々たる語り口である。気忙しい現代の風潮への永井
さんの主張と思えるスタンスである。
読者はそのまま著者の筆(古い言い方だが)づかいに惹か
れていく。単に失われたものへの懐古趣味ではなく、もっと
積極的な何かを読者は感じ取るだろう。
永井さんは「この小説では、明治の末頃から大正のはじめ
にかけて育った数人の子どもたちを、その成人まで書きあげ
たいと念願している」と記しているが、事実「数人の子供」が
登場してくる。だが結局、読者はその子供が成人するまでの
運命を描いている作品とは思えないだろう。子供を巧みにあし
らいながら、むしろ明治から大正へかけての東京下町の数々の
美徳を描くことにテーマがあると思えるからである。
すでに失われた美徳のもとに、永井さんが心を込めて書こう
というのが、「職人」の道にほかならない、と分かってくる。
永井さんは竹田米吉「職人」、斎藤隆介「職人衆昔ばなし」な
どからふんだんに引用し、いわゆる丁稚奉公から始まる職人の
道の厳しさを小説らしい記述を超えて、ひたすら実証的に描く。
そこで読者は本書のテーマは懐古談ではなく、職人修業の道と
思ってしまうだろう。そういう著者の意図をまずは素直に受け
入れるだろう。
だがそういう現代批判をしたい、と云う永井さんの意図が後半
になって、人物中心の並の小説になっている。無論、最初から人
物は登場させている、大工の長男、次男、長女、印刷工の長男な
ど、「数人の子供達」は最初から登場している。巧みにその明治
末期から大正への描写を行っている。それぞれの家業を継ぐため
、厳しい職人修業の道に入る、大工の子は大工に、印刷工は印刷
工に、なのだが、最初は主人公的な印刷工の子は途中から忘れら
て。大工の少年が徴兵検査を済ませて親方の養子に迎えられるあ
たりから、失恋でグレ始めると云う普通の小説になっていく。
その失恋男が結婚し、妻を亡くし、戦後になってようやく大工
としての覚悟に目覚めるというのも、ものすごく悪くもないが、
大震災あたりで終わっていたら、という気がする。前半と後半で
筆致、コンセプトが変わるという長編で、やはり永井龍男さんは、
短編小説作家ということだろう。
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