内田吐夢監督の中国での8年間、非常に恵まれて充実との弁

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 戦前、日活の名監督として活躍した内田吐夢は1953年、昭和
28年10月14日、中国から帰国した。内田吐夢は1898年生まれ、
岡山市出身、非常に美貌を誇っていて大正9年、1918年に谷崎
潤一郎らの関わる大正活映に俳優として映画界入りした。その
後、監督に転じて「人生劇場」、「生命の冠」、「裸の町」、
「限りなき前進」、「東京千一夜」など多くの作品を残した。
昭和14年、1939年、不朽の名作とされる「土」を制作、溝口健
二、田坂具隆、故人となっていたが山中貞雄らと日本映画の第
一次黄金時代を築き上げた、芸術的映画の雄とされた。

 その内田吐夢が戦時下、軍国主義の思想弾圧、表現の抑圧に
負けず「歴史」、「鳥居強右衛門」、「陸戦の華』などの制作
が不首尾に終わり、あまりに重苦しい当時の日本映画界、日本
社会の雰囲気に耐えられず、満州映画に昭和20年5月に移った。
満州滞在三ヶ月で終戦、ここで普通なら日本人はソ連軍の襲撃
にさらされるところだったが、それをクリアーできた。

 翌年、1946年、長春からソ連は撤収、中国共産党軍は進出、
そこへ国民党軍も進撃して国共内戦、内田吐夢は八路軍と行動
をともにした。1945年は長春の東北電影(旧満映)で仕事を行って
いたが、戦後は松花江三姓炭鉱で坑夫をやっていたこともある
という日本映画人としては類を見ない粘り強さを備えていた。


 内田吐夢が外からが隔絶された竹のカーテンで何を見ていた
のか、何を学んだのか、帰国後、東京の第一国立病院で静養の
内田吐夢の言葉が残っている。

 「私が日本で戦前最後に撮った映画は『鳥居強右衛門』で、
その後は『陸戦の華』という機甲部隊の映画の予定でした。こ
れは松竹と満映の共同制作でしたが、関東軍も後援するという
代物でした。でも脚本も出来ず、流れてしまいました。脚本の
予定は新藤兼人、脚本に一年以上かけて、私自身は全力を注ぎ
ましたが出来ませんでした」

 「私が満州に行ったのは、色んな事情がありました。複雑で
簡単には話せないのです。終戦後は長春にいました。そのころ
ソ連軍が進駐してきたんですが、これが安全弁のような働きを
しました。安全弁が消えると国共内戦が始まりました。ソ連軍
のすぐあとをついて八路軍が入り、それを追って国民党軍が押
しよせて来ました。そこで私たちは旧満映撮影所の機械設備、
を取り外し、機材を持って北上し、八路軍と終始、行動をとも
にしました。当時の旧満映のスタッフは家族をれて120人前後
はいました。北上中に、ソ連に近い鶴岡という炭鉱の町の小学
校を改造した仮の撮影所で、小さな劇場映画一本と記録映画を
五本ほど撮りました。国民党軍が松花江まで押し寄せてきた戦
雲たけなわの頃でした」

 「国民党が撤退してからは、私たちはなお機材を持って、長春
のもとの旧満映スタジオに戻りました。その後は、撮影所の設備
を拡充し、ソ連やチェコの機材を導入し、敷地も以前の倍に広げ、
建物も増築し、遥かにスケールアップしたんです。中国に新たな
共産党政権ができてその発展に歩調を合わせて東北電影も発展し
ました」

 「中国では映画は国家的事業になります。全ては国費で賄いま
すから、制作費など特に問題にならず、ともかく良い映画を制作
することが一番でした。作品数は少なく、劇映画は年に6,7本くら
い、全中国でも20本くらいでしょうか。長さは関係ありません」

 「その後、ニュース映画とか、教育映画、記録映画を年に数本
作ってましたがこれは北京の撮影所でやります。制作本数は少なく
、補うためにソ連映画などでも入ってます。アメリカ映画は全然
、入って来ないです。日本映画も三本ばかり来ました。『どっこ
い生きている』、『女一人大地を行く』、『箱根風雲録』でしたか。
私が帰るまでまだ上演されてなくて評判はわかりません」

 「制作本数は少ないけれど、非常に吟味されていて、出来上がっ
ても非常に大切に扱われます。それだけに製作者も責任を感じ自覚
が向上します。帰国して中国での検閲を聞かれますが、現在の中国
では中国生え抜きの進歩的な方が中心で芸術審査会というものがあ
ります。そこに持ち込んで検討されます。修正することもあります
が、中国は改修といい、非常に民主的なものです。日本の検閲とは
全く別物です。ただ批判されたら、一気に評価は下落します」

 「この八年間で変わったものは、人民大衆の財布の重さです。
豊かになりました、服装も目に見えて良くなってます。敗れた服の
中国人は今はいませんね。だが上の中央委員は相変わらず粗末な服
です。」

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