人生でやり残したことは無限大、言語学者への叶わぬ夢


 さすがに、私もあまり考えたくもないが、「人生でやり残し
たこと」を、あれこれ考え、焦りに似た気持ちに襲われてしま
う。もはや「将来幻想」は持ちたくても持てない、若いころは、
「いつかは人生にリヴェンジできる」と漠然と思って生きて
いたが、今となればリヴェンジはそもそも不可能であり、あの
汚辱はどうしようもないと思い知らされる。だがそれは結局、
当然でしかなく、逆に以前は忘れていた苦渋な体験が妙にゾロ
ゾロと脳裏によみがえってきて、何とも不快の念をぬぐえない。
では、せめて、やり残したと思うことに優先順位をつけてそれ
を実行していく、であるが勉学、研究という点では多少でも習
得、学んだと思えるものは、「大河の一滴」どころではなく「
太平洋の一滴」にすらならないという、あまりに厳しい現実で
ある、辻直四郎「インド文明の曙」でも「リグ・ヴェーダ」な
どのインドの聖典、ヴェーダ文献の修得に何度も輪廻転生して
生きなければ到底望みはかなえられない、という意味合いの文
章がたたが、インド古典だけでも、それ自体が膨大過ぎて一回
の人生では糟粕をなめるのみ、・・・・・となると絶望である。

 別に広汎な分野に通じるなど無理としても特定の狭い分野だ
けでも業績を、と考えてしまうが、非才の極みではそれも到底
なし得ない。実際、それなりの才能が備わていたら、若い時か
ら特定分野に集中し、優れた業績を残し得る、・・・・・とい
って論文程度ならこの世は星の数ほど、・・・・・歴史に残る
偉大な業績は夢想のみである。

 古代ギリシャ語のテキストも数ページしかまだ進まない。こ
れが大学で試験でもあれば、それ相応に習得は可能だろうが、
何か強制がないと一応の初歩の修得もできない。やってもやら
くてもいい、というなら独学で新たな語学習得は難しい、とい
うしかない。

 もはや学び、では難しいがもうコツコツ、文学を読んでその
「感想」を拙くても綴るしかない。

 やり残したこと、全体でいうならもう無限大である。では
国内だけでも旅行して観て歩こうか、これは正直、心惹かれた。
持病もあって海外に出られなかった私は、国内旅行もあまり
経験がない。一度の人生なら、と思ないでもないが、日本の
風景など、何処に行っても同じような、大同小異の退屈なもの
だ、私からするとさして魅力はない。むしろ京都を十分回って
みたい、という気持ちが強い。

 やり終えたことはほとんどない、まったく無用の介を具現化
したような人間で、ならば「他人に無用であれ、自分 に有用
であれ」のコンセプトで、これからも生きるしかないことにな
る。金はかかっても京都の高級店を可能な範囲で回る、下らい
ようでも、これは生まれ来てた甲斐というものだ。

 何もやってない、出来ていない、それは事実だが、反面、社
畜にもなれず生きてきた人生はマイペースでもあり、わりと好
きなことはできた気もする。矛盾するようだが、満足する気持
ちもないではない.だが論外に果たせないことが多い、多すぎる。

 私は元来、言語学者になるのが夢であった、印欧語、ヴェー
ダ語、サンスクリット語、まずはサンスクリット、まず残され
た時間にあらためてやりたいのはサンスクリットである。生涯
の本音である。

この記事へのコメント

山崎真澄
2023年03月06日 13:37
はじめまして、たまたまスイフトターボの試乗記の検索でこのブログにたどり着き去年の暮れから読ませて貰ってます。サンスクリット語やヴェーダ経典についての事を語られているのでコメントしたくなりました。私は30年前にインド人の導師の書いたヴェーダ経典「バガヴァッドギーター」の日本語翻訳本に出会ってからヴェーダを学び始めましたが、ヴェーダと言うサンスクリット語の意味は「知識」です。サンスクリットの別名はディーバ ナーガリーと言って天界の神々が使う言語ということですね。ヒンディー語はサンスクリットの60%ほどで構成されているようです。全ヴェーダ経典の肝は5000年前にインドのマトゥラー地方のヴリンダーバンに現れたクリシュナという至上神に帰結します。私はバクティヨーガの修行をしているのですが、修行仲間にサンスクリット語の学者がいてとても難解だとの事です。
私も毎日5時間ほどサンスクリット語の祝詞や「マントラ」をサンスクリット語で唱えていますが、俳句や短歌に似て節回しというか全て音節に乗っていますね。
「バガヴァッドギーター」もクリシュナが友人のアルジュナに関ヶ原の様な戦場で開戦前に語られた25分間位の抒情詩なのですが、文庫本のサンスクリット語原典の日本語訳を読んでも(自分もでしたが)ほとんど理解は出来ないと思います(笑)
導師解説付きの「バガヴァッドギーター あるがままの詩」をお勧めします。