加藤九祚『天の蛇』1976,ニコライ・ネフスキーの評伝、日本学、西夏文字の天才言語学者

柳田国男は自伝的なエッセイ『故郷七十年』で。貴族院官舎
時代に、ほぼ一日おきに来ていたニコライ・ネフスキーにふれ、
柳田としては彼の業績で特に秀でたものとして三つ挙げている。
①オシラ様の研究②西夏文字の研究③琉球方言の研究、である。
無論、それ以外にも数多くの業績はあるが。大阪外語大にはい
たとき、学長さんが、伊地知善継さんが学内月報にネフスキー
を取り上げ、孫引きだがネフスキーが「言語はどれも難しいで
すよ」という言葉を紹介されていた。あの言語の超天才をもっ
てしても、なのである。
ニコライ・ネフスキー、Николай Александрович Невский,
Nikolai Aleksandrovich Nevskyはヴォルガ河とその支流カマツ
の河間地帯にあるヤロスラヴリに生まれ、両親の死後は母方の
祖父のもとに引き取られ、ルイビンスクで17歳まで過ごした。
その後、ペテルスブルクで東洋語を学び、1913年2短期間の日
本旅行を試みたのが彼と日本の縁となった。
第一次大戦中に2年間の予定で日本に留学、柳田国男、折口信
夫、らの教えを受けたが、ロシア革命の勃発で帰国を延期、以後
14年間、日本に滞在し、日本語、日本文化を研究し、小樽高商や
大阪外語で教鞭をとり、さらに積極的に日本各地を回った。
1929年、昭和4年秋に帰国、そこはソヴィエト化したロシアで
あった。帰国してレニングラード大学教授となり、科学アカデミ
ー通信会員となり、西夏文字、日本学などで超人的な研究を行っ
た。だがスターリンの時代、1937年10月、国家反逆罪に問わて逮
捕され、夫妻ともども収容所へ、1945年に死亡。
その死から12年後、1957年に名誉回復なされ、1962年には映
えあるレーニン賞受賞、だが死んだ人間が戻るはずはない。なぜ
ネフスキーは逮捕されたのか、大粛清の嵐の時代、日本研究は弾
圧の対象だったにしても。収容所に7年から8年近くいたはずだが、
その生活ぶりはどうであったのか。
この「天の蛇」はサブタイトルの通り、ネフスキーの評伝であ
る。その53年の生涯を生きた時代、業績、師、友との関係で捉え
ている。
加藤九祚はこの本以前「ニコライ・ネフスキーの生涯」という
本を出しており、其の後の成果もまじえての拡大評伝となってい
る。単なる評伝ではなく、西夏文字との関連でおpもに捉えてい
る。伴侶でやはり犠牲となったイソ夫人にも説明を加えている。
題名はネフスキーロンブンの「天の蛇としての虹の概念」によ
っている。宮古島では虹を天の蛇と呼んでいたという。

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