秦恒平『花と風』1972,古典と近代のつながりを指摘、谷崎文学の再評価

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 谷崎潤一郎の「細雪」に三姉妹が平安神宮に花見に行く箇
所は有名だし、映画でも象徴的シーンとして撮らてている。
「あゝ、これでよかった、これで今年も此の花の満開に行き
合わせたと思って、何かなしホッとすると同時に、来年の春
も亦此の花を見れますように」と願うが、それでいて「花は
盛りは廻ってくるけれど、雪子の盛りは今年が最期ではある
まいか」と姉の幸子は思う、このくだりについ秦さんは、日
本の伝統文化の重要性を見出して、こう述べている。

 「『繰り返す』ということを一つの避けがたい自然の営み
と観た本当に眼の利く人だけが『繰り返す』ことの単調さと
退屈を、その儘新鮮な創造と絶対に深めようとした」として
定家や世阿弥などを挙げて、これらはいずれも「みな『繰り
返す』ことを拒まないでしかも常凡 な単調を乗り越える道
を見極めた」人だという。

 さらに「細雪」の中で「好きな花は桜、好きな魚は鯛」と
云っている点を取り上げ、「花は桜、魚は鯛と言い切った谷
崎文の魅力は、桜や鯛の、生命しての象徴的な重さを日本文
化の深みから精一杯にすくいとった処にある」と。

 従来、こうした見方は、常套的、陳腐と片付けられ、とか
く低評価されてきたが、そこに重大な見落としがあると秦さ
んは指摘し、日本文化における「華」と「風」の伝統を、新
しい角度から高く評価したのがこの本である。

 秦さんは中世の西行から世阿弥における「花」、近世の
芭蕉における「風」の意義を追求し、これまで重視されなかっ
た日本文化の重要な面に光を当てている。換言すれば、西欧の
近代主義に馴らされた現代人に対し、重大な見落としがあるぞ
と指摘しているわけである。

 こうした観点から従来は谷崎文学の欠点とされたきた面を、
むしろ真の意味で重要性があるとしている。「古い日本」に
つながる谷崎文学の再発見によって、これまで疎んじられて、
評価されなかった原因がおのずから明らかになる、というなか
なかユニークなエッセイではある。さらに桜は京都の桜でなけ
ればだめ、鯛は明石の鯛、・・・・・なるほど先日行った京都
の和食、「菊乃井本店」で女将さんが「明石の鯛さん」といわ
れていた。谷崎文学の伝統は京都には根付いていると思えたの
だが。




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