宇野浩二『独断的作家論』(講談社文芸文庫)「文学の鬼」による文学のつぶやき
宇野浩二のことを「文学の鬼」とはいう、だがなぜ宇野浩二
に限って「文学の鬼」なのか、「文学の鬼」たる理由は、であ
るが正直、釈然としない。別にケチをつけるのではなく、だっ
ったら、他の作家は、と思ってしまう。それは深く考える必要も
ないだろうが。
さて、「作家論」という本のタイトルだが、収められたのは
二十篇ほどの文学エッセイであり、別段、「作家論」と云うほ
どでもない気がする。宇野浩二が知っている作家についての思
い出を語ったものとか、作品の読後の感想である。なお初版は
1958年に文芸春秋新社から刊行されている。概して当たり障り
もない言葉で書かれている挨拶文めいたものもあるし、川崎長
太郎については、意識して引き立て役を買って出ている感もあ
る。
それらを除き、興味深いものは牧野信一、葛西善蔵の二人に
ついての思い出話だろうか。宇野浩二は牧野信一の生涯に重要
な影響を与えたものは、母への憎悪だという。実母である。そ
のことを繰り返し、牧野信一の自殺の原因もそこにあったとい
う。宇野浩二の牧野信一への態度、心的な態度は非常に厳しい。
私のように母親は宇宙開闢以来の子供憎悪、私に対してのみ
の激しい殺意を込めた憎悪を持ち続けた、ようは母、を持った
身からすれば宇野浩二の態度は当然と思えるが、人によっては
、「なにもそこまで」と思うかもしれない。
葛西善蔵について、ここで宇野浩二は葛西善蔵は他人の金で
「思うままに飲食し、一生、得ばかりした」と力説する。それも
そうかもしれないが、宇野自身も大いに迷惑を受けたから仕方な
いとは思うが、別の立場から葛西善蔵を見る、照射してもいいの
では、そのほうが真に迫れるとは思うが。
端的に云えば、宇野浩二は自分が接触し、知り得た範囲での面
でのみ、作家を非常に割り切って考える傾向が強い。それはまた
個人的には接触していない作家の作品の鑑賞にも表れている。
例えば永井荷風の『新婦朝者の日記』の中から、「一般に対し
て絶望した一個人の捕るべき道は超然ということのみだ」という
文章を引用し、これは眉唾ものだと述べている。その理由は「荷
風は超然としてはいられない性質を多分に持っている」というの
である。
また荷風が『日記』の中で、戦時下の物価や、人から食糧をもら
ったことを入念に書いていることについて、それを引用し、荷風は
このように抜け目がなく、恵まれた環境にあり、才能にも恵まれて
いたからこそ、戦時下でもものが書けたという。
森鴎外の作品批評では『半日』という短編で、主人公の博士が、
朝、顔を洗ってから、きちんと自分で始末する箇所を引用し、これ
は鴎外が軍人であったのみならず、その持ち前であったと述べてい
る。しかし、これなども、鴎外のドイツ留学中に覚えた趣味と思え
ば解釈も違ってきそうだ。
この本は作家論ではなく、宇野浩二の文学談話を聞いているつも
りで読むべきだろう。「独断的」というタイトルも確かにそうだと
思わせるものはある。
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