今、見えてくる人生の光景、諦めと救い
いったいこの世の生まれて「自分」という意識を持って
生きるという、・・・「確率」といえばおかしいが、もちろん、
文学的表現では例えば中島敦の『悟浄出世』の中のあの女妖怪
の言葉、青空文庫から転載させていただくと
考えてもごらんなさい。この世に生を享けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限の時間の中でも誠に遇いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。
とは云うが私はこの世を受ける可能性は事実上ゼロのように
しか思えない。生を受けている状態でなければ、「無」という
状態!とは云うが、「生」と「無」を対比させることが誤りで
あり、生命がない状態は、「無ですらない」と云う思いがする。
「無」とは何かはそれ自体が哲学上の深刻な問題になり得るだ
ろうが、哲学者の営業品目的な概念遊戯などどうでもよく、私
は私なりに「生がない状態」は「無」ですらなく、端的に云う
なら「ありとあらゆる設定自体がない」、・・・・・とまあ、
適切な表現もないが、死ねば無、といわれたら宇宙空間を「無」
が漂っているかのような錯覚をしてしまいがちだが、「生」に
「死」を対比させることが間違いで、どうでもいいことだが「生
がある状態」と「何も設定自体がない状態」だから生が終わると
、そこから「無」すらない、設定自体がないから、いかなるコメ
ントを差し挟む対象はない、過去も未来もない、生前も死後もな
いわけである。・・・・・・考えても仕方ないが、「死」は眠っ
てそのまま眠りから醒めないだけであり、怖がるようなことでは
毛頭ない、わけだが、なにかの拍子で見る機会を得た「この世」
への名残リの想いだけであろう。
そこで、今となっては見えてくる人生の光景、奇蹟以上で、こ
の世を束の間ながら見ることができた、人生は短いから、この世
を折角だからもう少し見ていたい、今まで観光もせず、ろくに
楽しみを求めることもなかった来し方、だから、できるだけ、美
しい観光地を多少は巡って、せっかくの生を受けた束の間を意義
あるものにしたい、という想いだけである。屈辱、汚辱ばかりで
、いつかはリヴェンジしようと思い続けてきたが、それなど全く
無理な話で儚い想いでしかなかった。生まれてみたら親は、母親
は特に宇宙開闢以来の聞いたこともないほどの我が子憎悪、最初
から殺意さえ抱いて基本的に終生それが続いた、事実上最後の言
葉はあの親の生涯のコンセプトの「殺意」だった、・・・・のだ
から、よりにもよって、と慨嘆するしかない。要は普通で良かっ
たのだが、普通は遥かに得られなかった。災難を振り払って、と
にかく生き延びることだけを考え、長く孤立無援の極み、たった
一人でトボトボ歩いたが、その過程では屈辱だらけ、とあきれる
しかないのだが、どうしようもないわけである。いつかは見返す
も儚い夢ですらなく、早く人に忘れ去られんたい、くらいなもの
しか残らず、本当に束の間のなにかの拍子で見る機会を得たこの
世での散々である。全ては諦め、というしかないが、これからは
なし得ることは本当にささやかでも、悔いなくこの世を楽しみた
い、という思いである。それ以上、何も望むことはない。
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