佐藤春夫『小説永井荷風伝」1960, ゆったりながら時に角が立つ文章
同じ慶応出身の文豪!の永井荷風と佐藤春夫、多分、佐藤
春夫にすれば非常に書きにくかったと思える。それまでも佐藤
春夫は永井荷風について優れた解説、随想、研究を発表してい
た。同じ慶応文学で敬愛する先輩、その文学的評価はすでに十
分書いていたはずだ。それらとあまり重複もせず、新しい荷風
論となるとまた難しさがあったということだ。
さらに佐藤さんにすれば荷風は尊敬する先輩というだけでな
く、師弟関係にもあったのである。と云って個々の文学者は互
いに独立ではあるが、個性は千差万別だ。安易なる師弟関係な
どあるはずはない。佐藤春夫の文学を読んで、「あゝ、荷風の
影響があるな」とは全く誰も思わないだろう。後輩であっても、
単純に弟子などとはいいがたい。それらしき時期もあったのは
事実だが。
でこれは「小説」と題している。だから逆に難しい、荷風の
人間関係をはっきり書かねばならない。まして佐藤さんは気兼
ねしてあいまいに誤魔化すなんて出来ないたちだ、お茶を濁す
わけにはいかない。敬愛の念と作家としての文学思想、の対立
だ。
で、それは結局、荷風があたかも色情魔、異常な色情に持ち
主であったことをどう書くか、だ。浅草のストリッパーなどと
の嬉し気に写る写真。この点について佐藤さんが「過不足なく
これをいかに表現し得るのか、むつかしい課題と思いわずらっ
ている」と述べている。
第一章は山形屋ホテルにおける荷風との巡り会い、第二章は
「偏奇館門前」で19歳の田舎出の少年として、はじめて荷風の
家を訪ねた場面、思い出が記されている。時間的に順序が逆で
ある。小説としての工夫か、最後の二章、「華やかな老残」、
「奉る小園の花一枝」となると、うす気味が悪い、秘密の混じ
った、エゴとヒューマニズムがぶつかってスパークするような、
荷風の死の直前の描写だ。すさまじい。
全体としてはゆったり書いているが、谷崎潤一郎にふれた
部分はピリピリしてもいる。荷風と佐藤さんとの違いは、喩え
ていえばヴェルレーヌトヴァレリーの違いはなく、この二人
は文豪で詩人で骨太な名文家である。ともにしゃれ者である。
反骨心を生涯もちつづけたのも共通だろう。戦時下はよそよそ
しく、戦争きらいで隠居的になった荷風と、国威発揚の佐藤さ
ん、ちょっとした行き違いでしかないだろうな。つながりは続
いていたと思う。
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