桑田忠親『利休の書簡』1961(河原書店)1971(東京堂)大変な労作、超すぐれもの

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 桑田忠親氏のまさに労作、600ページを超える、1961年に
京都の河原書店から出版され、1971年に「定本 利休の書
簡」として東京堂から改めて出版された。

 利休と云えば日本歴史上、文化人としてあまりに著名であ
り、秀吉から切腹を申し渡されたその理由、これは諸説ある
が永遠の謎であり、汲めど尽きせぬ諸説が出されている。映
画化も何度もされた、もう歴史上の超有名人物の利休は実際、
神秘的な人物ではない。多数の書簡が保存されいるからであ
る。

 利休の数多い書簡から170通近くを選び、まずは原文紹介、
そのうち三分の一ほどは実物の画像まである。書簡の口語
訳を付いており、その一通ごとに著者が茶道の歴史の観点か
らの考証と解説もつけられちる。さらに信長、秀吉、家康に
関連する一般歴史的な背景からも周到の考察がなされている。
また利休に届いた秀吉、蜂須賀家政、島津義久などの書簡も
収録されている。

 茶道という点に視点を置いた専門的な興味もないわけでは
ないにせよ、やはり一般読者は利休の人間像、その置かれた
状況、最後の運命にまつわる事情を知りたいはずであり、興
味尽きないものであると思う。

 書簡を中心とした評伝、伝記は西洋では珍しくないそうだ
が、本書も厳密な伝記ではないにせよ、書簡を通じて人間と
その置かれた状況は明らかになる。そこでなんといっても天
正19年、1591年の利休切腹の運命の日に至る10通近くの書簡
こそが興味津々とならざるを得ない。

 で、そこへ至る書簡はどうであったのか。

 問題の大徳寺山門の寿像(利休自身の像)が次第に問題化し、
利休自身もようやくわが身の運命の行く末を予感し始めたのは
1591年閏正月も押し詰まった二十日ころ、2月23日には早くも
堺に蟄居を命じられている。堺では余裕しゃくしゃくで従容と
財産を譲り、辞世の和歌など死に備えている。それらは書簡で
あわかるが2月28日には早くも切腹で果てているのである。

 閏正月二十二日、細川忠興宛、の書簡が二通ある。前日、利
休は大徳寺の古渓和尚を訪ね、善後策を相談しているようだ。
それから堺に戻り、書簡、「中々に住まれず、ばまた住みて渡
らむ、浮世の事にてもかくても」と、多少ア強気に出ているよ
うで、すぐに「けふは内々寂しく、もち屋の道喜など放申候」
と、つまりもち屋の道喜と雑談で気を紛らわしている、とか、
「引木の鞘の文」では、懊悩のあまり、床に臥せてしまったと
か、その人間味を素直に述べている。別に利休と云って超人で
はなかったわけで、親しみさを増すということだ。

 多く書簡は大半が非常に短く、ビジネスライクで、茶道のこ
と、目利きのこと、到来物へのお礼、など面白いものはあまり
ない。俗に浸っての達人ということなのだろうか、やはり並み
の人ではないのである。

 利休は筆まめで、同一人に同じ日に二通も書いているとか、
その画像を見せられても一般人では猫に小判というべきか、
すぐれた考証、解説、地味豊かな文章、東京堂から再度、「
定本 利休の書簡」が1971年、古書で入手可能である。

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