澤地久枝『もうひとつの満州』1982,抗日ゲリラ戦の英雄、楊靖宇を追うが、いかんせん資料が乏しく、望郷の旅日記に
これは一つの日本人の持つ誤解というべき歴史認識だが、
昭和の戦争を、満州事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争
というふうに区切って考えがちである。太平洋線を大東亜戦
争というのは日中戦争と対米戦争、アジア一帯での戦争を広
域で考えることで正当な名称と思われるが、それでも満州事
変と日中戦争との間、に歴史認識でギャップがあるのは否め
ない。1932年に満州国成立、関東軍は軍事作戦続行、1933年
に熱河作戦、となるが、1937年までは本悪的な軍事衝突はな
く、満州では関東軍の一方的な軍事作戦だけ、というイメー
ジがある。
「あったとしても関東軍の一方的軍事行動、中国軍は無抵
抗」と思われがちな時期1932~1937ということだが、実は
張学良軍などはさておき、満州では抗日ゲリラ戦が継続して
いたのである。それを日本側は単に「匪賊」と呼んで戦争と
は認めなかった、だが現実は双方に多く戦死者を出した実質
、戦闘状態だった。
満州での抗日抵抗運動、抗日ゲリラ戦でのゲリラ軍を東北
抗日連軍と称し、満州事変から終戦まで14年間にわたって戦
闘がなされてきた。だがその初期は本国の支援もなく、孤立
した戦いであったようだ。実は東北抗日連軍の第一司令とし
て中国では知らぬものはないという英雄であり、当時の日本
軍さえ、敵ながらあっぱれと感嘆下というのが「楊靖宇」な
のだ。日本人には知られていない。
楊靖宇は1905年、河南省生まれ、農家の生まれで工業高校
を出て共産党員になり、活動、1929年に満州に派遣された。
1932年から朝鮮との国境の山岳地帯をベースにゲリラ戦を行
い、1940年2月23日に通化省で日本軍討伐隊に討たれたとい
う。現在その地は楊宇県と名づけられているという。死後、
日本軍はゲリラ軍の食糧事情を調べるため遺体を解剖したら、
胃の中からは木の皮と草の根だけだったというからひどい。
その惨憺たる状況での抵抗ゲリラ戦は現在の中国で神格化さ
れている。宗教否定の国だから神とはならないにしてもだ。
さりとてゲリラ戦の兵士は秘密保持のため、プライベート
なことなど全く明かさず、記録もほぼない。写真もほとんど
ない。これは朝鮮の満州での抗日ゲリラ部隊のリーダーが
「伝説」の英雄の名称、金日成を次々と名乗ったことでも
明らかである。リーダーでもない男が最後に金日成を名乗っ
て北朝鮮を個人独裁国家にした、・・・・これは脱線だが、
澤地さんは満州育ちで楊靖宇の生涯を知りたいと思って、
満州取材旅行を敢行してみたものの、結局は、一冊の本にな
るほどの資料は到底、得られなかったようだ。つねにわが身
を隠すゲリラ抵抗の闘士の宿命だろうか。その代わりという
となんだが、この人物の足跡をたどることで、満州への望郷
の想いを綴る本である。
いかに自分が満州を懐かしく思おうと、中国の方から見れ
バ植民市化した敵国人である。いわば二律背反を自分の内部
で明確化する、ことの記述が割かれている.
実際は激しい戦いがあったのに、それを「匪賊」と云って
済ませている日本人、その意識がなお永続化して日本人内部
にある、という問題でもある。
描きたかったが資料不足で描けなかった、だが英雄はおぼろ
げでも見えては来るようだ。
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