『梶山季之追悼文集』の感想、ライフワーク「積乱雲」の夢、叶わず

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 あの梶山季之が香港で客死したのは1975年、昭和50年5月
11日、である。1930年生まれだから、わずか45歳だ、しか
も肺結核を患っていた。よくぞあれほどの、仕事ができたも
のだ、広島高師の国文科卒、東京に出て週刊文春などのトッ
プ屋、でもトップ屋時代は梶山季之ではなかった。梶はつい
ていたはずだが、・・・・・

 「梶山季之追悼文集」は梶山の七回忌、だから昭和56年、
1981年5月11日、東京新橋の第一ホテルで、偲ぶ会が開催さ
れた。その集いに間に合うように出来たのが「追悼文集」、
私家版と季節社からのソフトカバー版がある。この集いで
配られたのは無論、箱入りの私家版である。

 追悼文集のタイトルは「積乱雲」とともに、である。後日
また「積乱雲」と題する梶山の執筆の履歴を全て掲載した分
厚い単行本も出た。

 「積乱雲」は梶山がライフワークとして、出生し育った朝
鮮、ヒロシマへの原爆投下、またハワイ移民の歴史、などの
テーマを総合した大作になるはずが、最初の僅かなページを
書いただけで命が尽きた。香港はその取材の旅であった。

 それまでは要望に応じて雑多な仕事ばかり、やはり今度こ
そ本当に書きたいものを、だった。この仕事に打ち込むため、
梶山は他の原稿を整理し、態勢を固めていた。亡くなる前の
年の秋、京都の旅館で「積乱雲」の最初の書き出し30枚を仕
上げたとはいう。構成はどの程度、まとまっていたのだろう
か、あの雄大で深い三要素の融合された作品だから完成も容
易ではないだろう。

 梶山さんは本当に、優しく、ナイーヴなお人柄だったよう
だ。性豪なとは偽り、テレの産物だろう。肺結核の身である。
同じ広島高師の出の佐々木久子さんとはよく東京で飲んだ、

 「あの人、優しい人でしょ、飲むといつも泣くんですよ、
俺は文学賞がほしんだ、といって、・・・性豪でも何でもな
いのに、ただサービス精神で、それで疲れ果てたんです」

 三年続いたかどうか、雑誌『噂』の創刊。面倒見がよく、
編集からも慕われたという、そうだろう、サービス精神過剰
だった。

 山口瞳さん

 「梶山ほどいい男はいない、優しい男もいない、梶山ほど男
らしい男はいない。だからこそ、彼は身辺を整理し、自分にま
とわりつくものを払拭すべきである」


 追悼文集は葬儀の際の弔事や、逝去時の追悼文もあるが、新
たに依頼した原稿も多く、それらは梶山さんの人間像を再現し
ている。

 「黒の試走車」、『赤いダイヤ」などで社会派作家としてベ
ストセラーを連打、企業小説の先鞭をつけた、梶山組を結成し、
チップ屋として週刊誌を席巻した。また純文学は朝鮮物が多か
った。「李朝残影」もさることながら名作は多い求めに応じて
ポルノ小説を量産、文士での所得番付トップにも君臨、警視庁
の取り調べを受けること数度、

 廿日市の地御前は実はルーツである。そのヒロシマ、被爆と
朝鮮、またハワイ移民、これらの統合された長編、大河小説こそ
梶山の終生の作品、ライフワークだった。『書きたいものは書き
たいのである」まさに真実だった。

 だがその夢は全く、叶わなかった、酒を飲みすぎた、付き合い
が多すぎた、何より優しすぎた、・・・・・もう急逝し、48年で
ある。

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