井上靖『渦』1960、幻影の辿り着く先、善意ばかりが集まっても起こり得る不幸もある
中津伊沙子は34歳になる人妻である。夫の洪介は外国映画
の輸入を仕事としている。子供はいない。伊沙子は「時折、
何の理由もなしに、ふいに身の置き所がなくなるような空虚
さに襲われる」という日々の生活である。
そういう状況の伊沙子のところに、ある日、警察から電
話がかかってくる。前に知人への義理で、W航業という会社
の「給仕」に就職を世話した山西光一という「戦災孤児」が
不良たちの結果に巻き込まれ、署内に留置されている、もし
出来るなら引き受け人になってほしい、というのである。
伊沙子は好ましからざる話で、関わりたくもなく断ろうと
思うが、孤児らしくもなく、ピュアな光一に、一年分の定時
制高校の学費を出してやったことを思い出し、引き受け人と
なった。挙句に徐々に、この光一に愛情に近い感情を抱くよ
うになった。
それは夫にも起因している、傍若無人で中年になっても、
依然、大学生レベルの趣味的な映画の見方しかできず、高額
な料金で輸入した外国映画も当たらないことが多い。なにか
と無関心な夫への不満である。
山西光一が給仕(社会で書類の持ち運び、ガリ版刷りなど
雑用を担当の少年、近年はそのような雇用形態は見られない)
をしているW航業の副社長の吉松は、傲慢不遜な会社人間だ
が、内面に寂寥感をいだき、ストイックに耐えているような
人物である。冷酷なようでその実、温かみもあるという、「
父性」を煮詰めたような人間と云える。
伊沙子に「母」の幻影を見る光一は、また吉松に「父」とい
う幻想を持っている。この吉松の姪の宗方りつ子は、離れ島の
伝説民話の収集に興味を持っていろ芯の強い、行き遅れそうな
娘であり、伊沙子の亭主の中津洪介の理想化肌な部分に惹かれ
ている。ひそかに洪介を「愛している」、洪介はしかし自らの
餓鬼っぽい理想家的なところがイヤであり、りつ子の求愛など
弾き飛ばしたい。作者はこの洪介にもやはり寂寥を引きずる男
として描こうとしている。
このような諸要素、「母」幻想、「父」幻想、寂寥を宿す中
年男、年の離れた「恋人関係」というのかどうか、幻影と自己
の情熱を対比させたところ、その総体が「渦」をなしている。
光一は自分の幻影癖を憎み、伊沙子が亭主とりつ子の関係を知
って、「バランスをとるため」に身を寄せようとする鳥巣とい
う不良的な音楽家を射殺する。
と滔々と井上靖流の現代劇が展開なのだが、人物の類型、
描き方、筋、構成はやはりそれまでの井上靖の新聞連載の延長
線上だが、・・・・・読めば、「またか」という感想はまず持
つだろう。よくぞ思いつくな、という呆れた感情も湧いてくる。
井上靖の本作に就いての説明にこうある
「この小説には実在モデルはいっさいいない。登場人物は
みな、善意の人とした。人間と人間が寄り集まって形成のこ
の社会の悲劇は、善意の人ばかり集まっても、なお避けるこ
とが出来ないのだ。ナイーブな精神を持ち、他人を配慮しよ
うという人間ばかりでも、人を不幸に陥れることは避けられ
ないのだ。さおこに人間社会の不幸がある。善人ばかりでも
なぜ悲劇が起こるのか、それは人間各自が自我を持っていて、
その自我の相克があるからだろう。
大人の問題で不幸な道を選ぶ少年はかなり多いだろう。そ
うしたいろんな問題の批判者として、吉松という良識ある人物
を登場させたのだ。人生を理解している吉松でさえ、内面の自
我のあtめに幸福な生活の設計に失敗している。他人の批判は
出来ても、自分の客観視は難しい、作者の人生への考え方や、
人間というものの把握、それがある程度、吉松という人物に託
している」
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