マリオ・トビーノ『狂気もまた愛に渇く』1977,連作短編集、どの短編も告発の情念

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 ミッシェル・フーコーの言葉に「一つの時代には必ずそれ
に見合う狂気が存在する」と述べているが、時間とともに変
遷を重ねていく狂気の内幕には、憎悪、トラウマ、疾患など
複雑な様相が含まれる。その本質を説明することは、定義づ
けることは至難というより不可能だろう。

 この本の著者、マリオ・トビーノは精神のうちに暗い部分
を有し、浸食されていく人々の「物語」を書いたのだ。これ
は連作短編集であり、正常と以上の表層描写から、さらに進
んで狂気の持つ重層的な構造へと掘り下げてゆく。

 この短編集、その物語に登場の「狂人」たちは、実は狂気
という暴力の被害者である。それへの意志を持って自らを追
い詰めたものではないのか。

 その患者!の一人、「赤いシュミーズ」と題される章に出
てくる青年、ソレーラの場合は院長夫人の赤いシュミーズを
着て無人の一室で鏡に見入る光景から一転し、それを「異常」
と決めつける「正常人」の侵入で話は終わる。

 その後に残る、祝祭日の翌朝の空虚な光景に人々は狂気の
内部に潜む豪奢と悪意を味合わされるのである。マリオ・ト
ビーノはそれらの物語を誇張もなく、一つの出来事として、
淡々と綴る。それは作者自身が精神科医という資質に由来す
るものかどうか、どの短編にも深い悲しみがたたえられてい
る。

 大革命以前のフランスではビセートル精神病院に遠出して、
重症の狂人を見物するのが日曜日の気晴らしであったという。
だが正常と異常の間に本質的な違いはないとするトビーノ
はその主張のために、狂人の復権を目指すため、この短編集
を刊行したようだ。

 狂気についての書物は多いが、狂気への視点は多様である。
そこに描かれている狂人たちは単に弱い狂人ではなく、「愛
に渇いている」ちうのである。狂気が軽薄に不条理のシンボ
ルにされかねないこの時代、トビーノは全く衒いもなくそれ
を語って現代における狂気を問いかけている、「ゆがんだ子
どもたち」の章、一人の娘は「私は世界を放浪して歩く貧し
異古事記です」と告げる狂人である。メルヘンに似た幻想が
漂う。

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