年齢に関係なく、人生の特効薬は夢、死ぬ瞬間まで夢を持とう
実際、タイトル通りだと思う、人生が終わるというのは、
まさしく夢を失ったときである。だから、さほどの年齢でな
くても夢を失えば、実質、人生は終わる。もう、生き甲斐も
ないが、このままでいい、とあきらめた時が人生の終わり、
ということになる。三流に甘んじてそれで満足、では死んだ
も同然である。といって現実は限りなく困難だが、金がなく
とも、とまでは云わないが、金は乏しくても生きてはいける、
耐乏生活になれたらいい、だが「夢」を失ってしまうと、ま
さしく生ける屍である。
では「夢」というがそれはどういう「夢」でもいいのか、
と云われたらその通りである。夢の内容は問わない。邪悪な
夢ではいけない。自分なりに「夢」あるいは「目標」と言い
替えてもいいが、イコールでもない、「夢」は幻想的な目標
である。だから「幻想」なくして人生はないともいえる。
なぜここまで「夢」にこだわるかと云えば、人生を切り抜
けて来られたのは、ひとえに「夢」を持ち続けたからである。
宇宙開闢以来の毒親に長年さいなまれ、まずこの世にはない、
あの出口直のいう「地獄の釜の焦げ起こし」、という苦難の
中、生きてこられたのは私なりの「夢」を捨てなかったから、
・・・・・・で、「夢」は実現された?それは問う必要はな
いと思う、不満足な形で多少は夢は実現されても、本当に夢
が叶うにはあまりに程遠い、別に夢とは実利ばかりではない、
夢幻的なものもあるし、精神的な意味合い、もある。例えば
読書の目標もその手掛かりになる。同時に常に新しいものへ
の挑戦、現実の困難の克服でもある。
夢をなくした人間ほど空虚、というか冴えない存在はない。
瞳に輝きはない、当然である、「夢」は空想でもいい、あま
りに現実隔絶した夢でいいのか、とも思ってしまうが、それ
でいいのである。
陳腐に思われるだろうが、荘子の「荘周、夢に胡蝶となる」
の話のように、現実と夢は等価なのである。ここに人生の
真実がある。干からびた現実をどこまでも押し通しても、得
るものはない。
この記事へのコメント