坂口安吾、基本的に大衆性を欠いた流行作家、本質は隠者の文学

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 「人間は生きることが全部である。死ねばなくなる。名声
だの芸術は長し、バカバカしい。私はユウレイはキラいだよ。
死んでも生きているなんて、そんなものなんかキライだ。生
きることだけが大事なんだ。たったこれだけのことが世間は
わかっていない。死ぬとただ無に帰するのみ、この人間のツ
ツマシイ真実に忠実であらねばならない」

 太宰治の死を悼んだ坂口安吾の言葉である。太宰が自殺し
たことは無論、くやしくてたまらなかったにせよ、安吾の信
念からは到底、容認できない行為であったわけだ。それほど
の安吾は生命感の充実した、ほんものの命を一途に生きよう
とした。

 で、この言葉に続き、「然し、生きていると疲れるね、か
く云う私も、時には無に帰そうかと思うときもあるよ」

 自殺した太宰はバカな奴だ、可愛そうな奴といたわりつつ
も、決して他人ごとではないという思いにも捕らわれていた
のである。太宰は1948年に自殺、その死を悼んだ安吾も1955
年に、太宰の死の7年後に死んでしまった。

 新潟の旧家に産まれ、東洋大学で仏教を学び、禁欲的な修練
を自らに課したこともあった。師事した牧野信一の作風に通じ
る、風格ある空想的ロマン「風博士」によって早くからその才
能を認められていた。続いての「黒谷村」、「吹雪物語」など
にその文学的境地を展開、だがそのまま作家として順調に世に
出たわけではなく、貧窮と放浪の生活が続いた。

 安吾が太宰や織田作と並び、風雲に乗じて一躍花形作家にな
ったのは全て戦後のことであり、「堕落論」を引っ提げて、生
きるためには思い切って堕ちるべき、とあたかも焼け跡の聖者
のごとく呼びかけ、「白痴」、「青空と外套」などの怪奇な旋
律をたたえた作品を連打、たちまち戦後文壇の騎士となった。

 生きるためには堕ちよ、というのは人間が「可憐であり、脆
弱であり、それ故、愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱
すぎる」存在であることを知り抜いていたからのことだ。この
崩壊とは滅の運命を前にして、なお心弱くして、天皇や家族制
度にすがっていてはならないというのだ。日本も日本人も堕ち
きることで、自分を発見し、救うより他にない。政治による救
いなどは、全く噴飯もの、というのである。

 戦後の「堕落論」は決して思いつきではなく、大東亜戦争の
さなか、昭和17年「日本文化史観」という実に注目すべき文化
批評を書いている。そkどえは桂離宮も、大雅堂も、鉄斎も、
茶の湯も何一つ知らないが、累々たるバラックの屋根、月夜に
代わるネオンサインのしたに「ここに我々の実際の生活が魂を
下ろしている限り」、これが美しくなくて何であろう、ここに
こそ真実の生活があり、伝統の健康さがあると主張している。

 全ての権威、全ての形式主義、全てのお仕着せの道徳からの
解放、そこに生の充実を自覚すべき、というこの決意が敗戦に
より、多くの人の感動を呼んだのは当然だ。

 戦後、安吾は花形作家に押し上げられたが、だが安吾の文学
はどう考えても、流行作家になるような大衆性は欠いていると
しか思えない。安吾の文学は世間から孤立した隠者の文学と云
うべきだろう。おかしいようだが兼好法師のような隠者的批評
眼の持ち主だと思う。安吾か狂おしく歩いた道は、まさに潔癖
すぎる精神主義だったのではないか。それが流行作家におしあ
げられたのだから、それが安吾の精神に変調を来したのではな
いか。ヒロポン中毒、競輪で八百長だと協会を訴えたり、税務
署と大喧嘩をしたり、次々と賑やかな話題をまいた。その後、
桐生に住み着いてまずは騒然から脱した。最期の連載は未完と
なった「安吾風土記」いい味を出していた、また歴史作品の
「道鏡」、「二流の人」、「信長」などは個性に満ちて光って
いると思う。「信長」こそがあるいは代表作かもしれない、
安吾の最も愛好した歴史上の人物である。

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