石川達三『私ひとりの私』1965,自伝の幼少期部分、非常に腹にこたえる人間形成史

私はなんとなく、石川達三は岡山県ゆかりの作家と思って
きたが、それは正しいと思う。高梁市、旧制高梁中学、さら
に岡山の関西(かんぜい)中学卒である。だが生まれは秋田
県、実際、これらの時期、実に腹ふくる思いがあったのであ
る。
で「私ひとりの私」は自伝の幼少期部分である。なお高梁
での小学校、東京のおじが府立一中を受けろと云って上京、
不合格で学年が遅れる苦渋、などは青春出版社「俺も落第生
だった」に詳しい。
主人公の「私」石川達三だが、中学教師の子供として秋田県
横手市に生まれる。父の転任で秋田市のに育つ、さらに東京郊
外の大井で数ヶ月過ごし、岡山県の城下町、備中松山城の高梁
に移り、小学生時代、母を失うこの母親は石川達三の精神形成
に大きな意味を持っていて、半ば無限ともいうその死後もあら
ゆるものが母の思い出につながっている。
年子が多く、七人も子供を生んで、自分の手で育てたが、四
男だけは里子に出した。これがこの母親の大きな躓きの原因と
なったという。四男は家に戻っても親や兄弟に馴染まず、不安
定な精神で、母親の怒りと悲しみの種となった。優しかった母
もその気苦労で八人目の子供を生んだあり、脳梗塞で急死。
その後、達三は叔父の家庭にやられ、愛情のない対応をされ、
大きく傷つく。そこからまた家に戻ると、善良だが多忙で気が
利かない継母、と家庭に全く無関心な父親、次々と心に痛手を
受けて、なんとか中学時代を過ごす。
おおよそ、旧制中学まで、である。両親は明治の典型的人物
だ。父は有能な教師だが、家庭的な面は皆無である。子どもた
ちは勝手な集団を作って遊び歩き、大人の知らない知恵を獲得
、子供特有の世界の中、その秩序内で生きていく。母が生きて
いる間あそれで何の問題もなかった。母は全てをこなした。だ
が絶え間ない労苦で将来の優しさは、刺々しいものとなり、健
康も失っていく。だが母としての責任は死ぬ日まで完全無欠に
行った。
極めて些細なことが母の愛を実感させる、そのことを石川達三
は多くの例を引いて、巧みに述べる。吹雪の寒い夜、外から帰っ
てくる男の子たちをに、事前に熱い湯を用意して足を洗わせ、温
かく手を差し伸べる。だが秀才として知られた叔父は、小学生の
達三を引き取ってから、果樹の肥料として糞尿の汲み取りを運ば
せ、畑の草r取り、切り上げる時間すら言わない。その被害の傷も
容易に消えない。
そのような対比を重ねることで、人間の精神形成がいかに、な
されるのか、極めて実感を込めて書いてる。
描かれているのは明治と対象の社会と人間である。だが時代を
超えた家庭のもつ意味、日本人的な愛情や無関心、生き生きと蘇
るのである。迫真の自伝である。
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