あゝ、一日は短い、一年も短い、だから人生も、・・・ちょっと待て
一日の短さはますます痛感する、朝起きても何か仕事、合間
に文章、すぐ昼になって、昼休み、これも午前と同じ、すぐ夕
方に、後片付けらしきことをやって帰宅したら、もう8時が近
い、夕食、お風呂で実際、読書もなにもろくにできない。この
繰り返し、何を今さらなのだが、一年もまた短い、それをます
す痛切に感じるわけだが、人生ときたら、この短い人生を僅か、
僅か数字で二桁重ねるしかないのである。昔、ある人物が電卓
で1プラス1=2から始まって+1の演算を繰り返してみろ、
という。即座に100は超える、「人生ってあっという間だぞ」
当たり前じゃねえか、にしても、このは最も深刻な問題であ
る。祖母は99歳、まあ85歳での脳梗塞がなければ100歳は超え
ていただろうが、「どんな人生だった?」と聞いたら「もう
人生は瞬間だった」、そりゃそうだと思う。100年といって
二桁寿命と全く五十歩百歩以前でしかないのだから。
こんな人生をどう生きろというの?と悲歎が噴出するのか
どうか、問題はこの馬鹿らしいほど身近、何千年生きてもい
異様な超富豪、名声に満ちた人間も、惨めな下積みの貧民も
与えられた時間は同じようなものだ、というか逆転現象も珍し
くもない。しょせん、中ぐらいがいい、何につけても、寿命に
限りがありすぎるのだから、金や財産は全くないのも寂しいが、
逆にあり過ぎたら税務署などに狙われ、税金を取られるだけ、
ほどほどで十分ということか。
だが真の問題は、この短すぎる人生に悩み、災難、苦しみ、
気苦労が多すぎるということである。これは実は個人差が
ある。家内にこのような趣旨のことを話したら、「そんなこ
とを云う人なんか聞いたことがない!」なるほど、幸せいっ
ぱいの人生もこの世には多いというわけである。まことに
見jか過ぎる人生に質量が無限大に詰め込まれた中性子星の
ような人生もある、学校は小学校から大学まで私ときたら、
まるで屠殺場に引かれていく家畜のようであった、そこを
出たら孤立無援の彷徨であるから、もうそれで老境?とい
われても溜息が出てしまうというわけである。
苦しみの詰め込まれ具合は人により、大きな違いがあるに
せよ、やはり人生なんて短い、ただ生きるには健康と生活費
がなければいけないのだから、無条件で生きられる道理もな
い。しょせんは人間、堂々めぐりの苦しみというわけである。
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