平野謙『芸術と実生活』(岩波現代文庫)いわゆる「平野公式」の展開、私小説の理論と実際

『芸術と実生活』とは歴史的には古い由来、というか経緯
を持ったテーマでこの狭い日本の文壇でもよく議論が何度と
なく行われてきたものだ。二葉亭四迷の生涯と文学において
、とうてい両立し難い二つの面として、まず見出されるもの
が、その後、自然主義文学の興隆と展開の中で注目もされ、
それ以来、近代日本文学野中の重要なテーマとなった、とい
えるだろうか。実はこのテーマは我が国独自とされる、私小
説の基本的性格を既定するものだったからである。
著者、もちろん平野謙によれば、私小説とはその随筆的、
日常茶飯事、身辺雑記的な内容のため、小説とはいえない、
などと批判されてきたが、その純粋なものについてみれば、
その本質はむしろ非日常的な性格であるという。「家常茶飯
的ならぬ生の危機感」こそが私小説のモチーフであるという
のだ。
私小説における生の危機感は、形而上学的な不安や絶望の
意識とは異なり、妻に逃げられ、人塚と通じたり、あるいは
家族との死別、病気や借金に責め立てられるといった類の、
これを日常的と見るのか、非日常的とみるかも紙一重の認識
の差ではあるが、平野はそれをやはり「生の危機感」として
捉えるという立場を取っているのである。
だから「実生活上の危機意識とその救済」こそが、まさしく
すぐれた私小説の、心境小説のモチーフだという。同時に、こ
こに、芸術と実生活という重要なテーマの「二律背反的な矛盾」
が存在するという。なぜなら、執筆を唯一のモチーフに、その
危機感を実生活上に求めたら、いきおい実生活、そのものまで
破壊し、またこのような危機を警戒し、克服するところに、実
生活と文学との調和を図ろうとすれば、執筆意欲は低迷し、そ
れ故に、常套化する。これこそが私小説の基本的性格だ、とい
うのが平野の主張なのだが、これは平野独自の考えであり、伊
藤整もこれを「平野公式」と呼んでいたくらいなのだから。
本書は、以上のような正直わかりやすいともいい難い、平野
の基本的考えとその適用としての個々の作家論から成り立って
いる。
作家論として取り上げられているのは、森鴎外、田山花袋、
徳田秋声、永井荷風、夏目漱石という、まあ大物作家六名で
ある。ここに取り上げられた作家が、実生活をいかにして乗
り超えたかという観点から、その表現としての文学を読むと
いう立場で一貫している。著者も述べるように、私生活まで
意味ありげに詮索するのは文学鑑賞の邪道であり、作品が全
てだという。これは正論のようだが。亀井勝一郎や山本健吉
とは逆の立場なのである。
平野によれば元来、小説とは「危機における人間表現の一つ
の形態」にほかならない。『罪と罰』も『赤と黒』も日本の私
小説も、その例外ではあり得ないというのだ。だから、あとが
きで平野が自らこの本を「イヤらしい本」と謙遜しているのも、
妥当な面はあるが、ともあれ特色ある作家論ではある。
鴎外についても文学者としての鴎外について、芸術と実生活
の矛盾に耐えて、「一方的な切り捨てを最後まで行わなかった
」ことを学び取る必要があるという。田山花袋の『蒲団』につ
いても、中村光夫などによる定説に反対している。やや原則論
で強引解釈は否めないが、ドギツさもそこそこあって、平野ら
しいとはいえる。
初版は1958年に講談社から出たものである。
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