日本宗教史の巨人、蓮如を丹羽文雄『蓮如』から読み解く

 ダウンロード (9).jpg
 丹羽文雄さんの『蓮如』、書くとなれば既存の歴史宗教の
研究書、書籍、又は論文なども徹底参照しないとことこまか
にかけるはずもなく、全8巻という大著だっただけに歴史書、
研究書などからの引用か避けられず、はからずも「無断引用」
問題が露呈してしまったが、やむを得ない面はある。研究者
だってしょせんは既存の研究、論文の引用である。

 ともかく日本仏教で最も日本らしい、また深化を果たした
仏教宗派はないといえる。それとて明治時代、「浄土偽宗」
との深刻な反省があった。

 ともかく丹羽文雄さん「蓮如」を完全読破は出来ないが、
部分読みに徹し、感想もまじえてまとめる。

 浄土真宗中興の祖とされている蓮如細ほど生涯に、なんとい
うのか神秘性の欠ける大宗教家もいないだろう。85歳で亡くな
るまで五人の妻を迎え、27人もの子女を産ませた旺盛な性欲と
いうべきか、この伝統はどうも現代に引き継がれているようだ。
ともかくも、およそ禁欲性は皆無な印象である。教団の再興と
いう、生まれながらの義務をまずは堂々と果たし、一生、バラ
ンスの取れた常識人として生きぬいたように見える。法難にも
遭遇し、流浪の生活も経験したが、その信仰は一度も夢想、狂
信とよばれる境地にはならなかったようだ。

 1415年、本願寺第七代んお法主、存如の子供として生まれた
が、蓮如の生母の身分は低く、そのため彼が六歳の時、家を出
てしまった。父が死ぬと義母は蓮如を排斥し、実子の応玄を後
継にしようとした。だが叔父などの力添えで八代目法主に就任、
蓮如は既に43歳だったという。他方で本願寺の勢力は衰えるば
かり、叡山のような旧勢力はもとより、同じ浄土真宗でも高田
の専修寺派などの有力な法敵もいくつもあった。本願寺は世襲
制度ともいえる「家」となっていたわけで、蓮如の仕事はこの
傾いた家の再興ということだったようだ。

 中年すぎまでの蓮如の内面は計り知れない、丹羽さんもさす
がに勝手な創作もできにくいが、そのセーブされた範囲内での
小説としての作為もあるが、なにせ蓮如である。容易ではない。
だが生まれついたこの課題に蓮如が迷いを示した形跡はない。
輦輿は世襲制度の枠内で家長としての地位を争い、やがてめざ
ましい組織力を発揮する、これぞ蓮如の蓮如たる所以だが、そ
れが内面性に欠けるというならそのとおりだろうか。その結果
の本願寺教団である。象徴的意味合いで出家はかっての宗教家
の資格だとすれば、蓮如はどこあmでも「家」を出ることなく、
宗教家となった最初の人物あろう。

 法主となった蓮如の取った態度は非常に戦闘的で、「御文」
とよばれる公開文書を通して他の教団を激しく攻撃し、他力本
願、念仏一筋という立場から複雑な学理、修行を要求する他の
仏教宗派を攻撃、無論、専修寺派や仏光寺派という真宗内部の
法敵とは特に激しく対立した。親鸞以来の、同じように、南無
阿弥陀仏と唱える易行の宗派の中で、さらに易行道の観念をめ
ぐっての対立があり得たようだ。念仏さえ唱えたら、往生決定
ということで仏像も読経も不要という簡便さに載ったおざなり
な宗派が多くあらあれ、往生を容易に大衆化と云うので、金を
とって信者の名前を仏前に登録という教団も現れ、そういう宗
派に反対して蓮如が本願寺派を強化していくと、他の宗派から
の反撃も大きく、激しくなって、近江の堅田に拠点を築くと、
叡山は尼度にわたって武力攻撃をしかけてきた。剣極、蓮如は
多額の金を払って叡山と妥協したようで、専修寺派は叡山に
加担していたという。

 いったい、鎌倉から室町にかけて日本の宗教界ににわかに
排他的な教義の争いが起きた、というのは事実のようだ。本来
は自然に神を見る、という日本人の宗教感覚はおおらかであっ
た、とされ、神仏習合が定着していた。天台も真言も奈良の旧
仏教もいたって平和的共存をなしとげていたが、鎌倉仏教以来、
法華を筆頭に、対立は激しさを増した。原因は時代の変化で、
社会階層の流動化が起きた、大衆化が進展したとかいうが、そ
の真の理由はなににもおtまれらるのか。

 本願寺の蓮如はこのような時代の要請を取り入れた組織戦術だ
ったようであり、時代の流れを見抜いた、ともいえそうだ。彼は
地方の末寺と並んで念仏道場という、半俗の機関を設置、その下
に講をおいて、半ばクラブ組織化、少人数で宗教を語り合ったと
いう。お互いの社交も楽しむという意義を持った。「講」は他の
宗派でも例はあるそうだが、自発的な活動を促した点で蓮如の知
恵は際立っていたという。信者はそこで話し合うことで、自己表
現の欲求を満たせる、見抜いた蓮如の才覚である。講の世話役に
多くの信者がなることで、社会的地位への欲求も満たすことがで
きたし、信仰が純粋な個人意志より、集団的な楽しみとなった、
それは明治以降の新宗教の方法論と、も思える。

 民衆の宗派への帰属感情を満足させだた、同時に蓮如は教義そ
のものに胚胎性を持ち込むことは排除した。組織さえ固まれば、
教義はなるべく多くの民衆を引き込む方がいいという洞察だろう。
徐々に他宗派への攻撃を禁じ、親鸞が否定の神祇崇拝すら信者に
許したのだ。また蓮如も一時的には一揆を指導し、地方の土豪と
戦ったようだ、加賀の一向一揆として知られるが、それが終わる
と教団を中立的な立場に置こうとしたという。諸仏諸菩薩の堂宇
を軽んじないよう、と命じるとともに、政治的争いに深入りしな
いように求めたという。蓮如が日本における一宗派の限界も見て
とったのだろう、多様な勢力の一部でしかあり得ないんが教団と
いうことである。然し蓮如は組織を育てたが、組織に裏切られた
、晩年からの加賀の一向一揆はふたたび火の手を挙げ、本願寺
教団は一揆の主役となった、最終的に政治に叩き潰された、とう
ことか。

 丹羽文雄さんの「蓮如」もあまりの労作、多くの研究、資料を
参照、引用、するしかなく、安易な「小説的創作」はまた批判を
受けてしまう、その要素もまた必要なことは間違いなく、この、
極度の頭脳の消耗がアルツハイマーを招いた、のかと思われる
ほどである。

この記事へのコメント