フランス映画『赤い風船』Le Baloon Rouge, 風船の擬人化、独創的だが何かあざとく、ラストは大失敗か
1955年、アルベル・ラモリスによるフランス映画『赤い風船』
1955年、非常に著名な映画だがVHS時代もお目にかかれず、DVD
時代もちょっと、だが最近というべきか、Youtubeでフルで観ら
れるようになった。英語字幕版もある、この映画は基本的に大絶
賛される傾向が強い、その独創性である。ある意味、あざとい映
画であり、私は賛否が分かれると思える、が現実は絶賛ばかりの
ようだ。別に毀誉褒貶はどうでもいいが、この映画の前にラモリ
ス監督はモノクロ映画「白い馬」という佳作があった。それに続
く、小品の佳作というコンセプト、だが今度はテクノカラーとも
思えそうな文句なしのカラー映画である。そりゃ、「赤い風船」
だから赤が表現されないとお話にならない。「白い馬」ならモノ
クロでも構わないが。
時間は36分という、と思ってみると意外に長さを感じる?
大人が見ても子供が見ても確かに新鮮な心がよみがえって来るよ
うな、老いも若きもどこか惹きつけるような魅力はある。だが、
さりとて私の子供時代の昭和30年代のような日本の街並みではな
い、パリである。郷愁一色、とはいいがたい、違和感はある、だ
が仕方がないことだ。端的に言うならフランス的な爽やかさに満
ちている。子供が持って遊ぶような赤い風船、それがもし、ポカ
リと町の空に浮いて漂ったら、赤い風船を大切な友達のようにし
ている子供姿を街で見かけたら、誰でも微笑は禁じ得ないだろう。
ラモリス監督がどうしてこのような発想を思いついたのだろうか。
実際、映画は現実の醜さ、問題を抉るものが基本である。このよ
うな単純な美しさ、子供の喜びを描くというだけの映画もあって
いいのではないか、独創というならそれが独創だ。現実化する気
にならないことを現実化、この単純さの映画化というアイデア賞
である。私事だが、幼いころ、親の虐待をみあkねた叔母が大阪
のアパートに私を半年ほど、引き取ってくれた。梅田、心斎橋な
どによく連れて行ってくれたが、あるレストラン、高い天井、わ
ろと広い部屋だった、私が持ったヘリウム入りの風船、私がつい
手放して風船が高い天井にぷかぷか、どうやってあの風船を回収
したんだろうと、今でも思うのだ。赤じゃなかった。
ある日、少年は小学校へ行く途中で街灯に引っかかった赤い風
船を見つける。それを手にしてバスに乗ろうとしたら断られた。
悲しくなった少年は学校に行って教室に入る前に風船を小使いのよ
うなおじさんに預ける。その日から赤い風船は少年のいい友達にな
った。貧しい家に帰ると、祖母が風船を窓から放り出すが、風船は
いつまでも窓辺から離れない。少年が学校に行っても、教会にミサ
にいっても風船がついてくる。そこでいろいろ問題を引き起こす。
最初は、あれ、写実的な映画か、と思わせるが、実はこの風船を
擬人化しているのである。
パリの裏町の独自の音響はあるがセリフはほぼない、少年も無言
である。無声映画のパントマイム的な美しさが漂う。雨の日、登校
中、風船を雨にぬらすまいと、大人に次々と傘にいれてもらうなど。
この映画のまず魅力は孤独な少年が無口であり、また表情に自然
な静けさがあること、大人の通行人のそろいもそろって少年に無関
心であること、その表情も殺伐さも現実そのままだ監督はすべてを
計算しつくしているような気もする。おまけに少年が赤い風船のヒ
モを離したり、捕まえたり、でもちゃんと自分についてくる、その
際の表情の愛らしさ、でも乙にすましている。
テクニカラー撮影であり、また色調が渋い。パリの裏町のさびれ
ら光景で赤い風船が際立つ、色の変化にも詩が呼吸しているかのよ
鵜だ。だが少年が悪童たちに追いかけられ、ついに赤い風船を離す。
そうしたらパリのあちこちから青や黄色などの風船が怒って飛んで
くる。少年を慰める、……このラストシーンはどうもいただけない。
基本的に風船の擬人化であざとい映画だ。でもそれはまだいいが、
ラストに無数の風船が飛んでくる、少年を天空に運び去る幻想趣味
は、前半の写実性が吹き飛んでしまう。
だが、独創的というなら独創的、音楽も雰囲気にマッチしている。
抒情的な美しさは格別だ、佳作には違いない。
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