戸川幸夫『高安犬物語』1954,直木賞受賞、受賞で謎の祝電が!内容はあまりに単純
さて、戸川幸夫さんである。戸川さんの文章で絶対に外せ
ない、というが必読の文章は青春出版社『俺も落第生だった』
の中の文章である。多くの著名人の文章があるが、政治家など
はゴーストライターだろうが、作家は自筆が多く、戸川さんの
文章は光っている、旧制山形高校時代の経験談だが、山形の名
門遊郭のナンバーワンと姉と弟のような関係になった。休みに
は下宿を荘子に来てくれたりとか、だが別れはやってきた。
ともかく二年連続留年し、戸川さんは成績不良と素行不良で退
校処分を食った。
ちょっと再び引用すると、・・・・
私が二年生で二度目の留年をしたというので、ひどく怒って
、訪ねて行っても登楼させてくれないこともあった。その年の
三学期末、私は胸を悪くして入院、病院から橇で学校の試験に
行った。勉強は全くできておらず、明るい見通しはなかった。
最後の試験が行われる朝、千代竜から長い手紙が送られてきた。
「会ってお別れが本当でしょうが、会えば余計に別れが悲し
くなるので手紙を書きました。私は今度、秋田のある旦那さま
に引かれて、そっちに行きます。もう二度と会えないでしょう。
でもあなたのことは、いつまでもおぼえています。あなたは正
直でいい人ですが、人間はそれだけではだめです。修行を積め
ば、あなたは必ず偉くなれます。しっかり勉強をなさって下iさ
い。あなたが卒業するまでは見守りたかったのですが、仕方あ
りません。勉強して、新聞に名前が載るようになってください。
そうしたら私は電報で喜びの言葉を送ります」
たどたどしい文章の手紙を橇の上で繰り返し読んで私は泣い
た。
昭和29年、1954年、私が直木賞を受賞したとき、多くの祝電
を友人らから頂いたが、中にひとつ発信の名前がないものがあ
った。発信地は青森で秋田ではなかったが、私は千代竜でなかっ
たかと思っている。
でその直木賞受賞作、動物の作品である。1954年「大衆文芸」
12月号に掲載された。
「チンは高安犬としての純血を保ってた最後の犬だった、
と私は今も信じている」という書き出しである。高安犬という
のは、山形県高畠町高安を中心に繁殖している中型のガッチリ
した体つきの、戦闘的な狩猟犬である。この種族は今は滅びて
いると思われている。当時、旧制山形高校の学生だった「私」
は。純血の高安犬が存続しているという奇蹟を信じ、日曜ごと
に自転車で、付近の山村を捜し歩いた。滅びゆく種族への愛惜
からの行動だった。
ある日、吉蔵という熊狩りの達人が連れていた、まぎれもな
い高安犬と巡り会う。吉蔵は短期で気難しく、その上、乱暴者
で、村人ともめったに話すことはない。だが日曜ごとに出てくる
、モノ好きな「私」の熱心さにほだされ、心を許してくれた。
チンが病気になって、手術が必要となり、吉蔵はついに犬を
手放すことにした。「私」は同好のパン屋の主人と組んでチン
を引き取った。チンはスキを狙って吉蔵のところに逃げ帰った
こともあり、土地の親分の飼い犬で闘犬とも渡り合って、相手
をへこませた。が徐々に元気をなくし、老いていくのみ。その
仙台の大学の学生になっていた(旧制高校は卒業できず、元来は
東北大進学を考えていたが、それがかなわず、この部分は事実と
反するが)「私」が山形のパン屋からの電話で、駆け付けた翌日、
チンは息を引き取った。ハク製を東京の科学館に引き渡すつもり
で、意気込んでいたが、出来たものはガラスの目玉をはめられた
、オモチャの熊みたいな、おどけたものだった。・・・
と最後の部分は面白い。だがその他はいたって平面的で、いっ
たいどんな面白い話になるのかと思いきや、だんだん裏切られて
行くようで、物足りない小説である。肝心のストーリーはあまり
に平凡すぎる。猟師もパン屋の主人ももっと風貌など的確にうま
く描かないと、ちょっと、それもだめである。直木賞受賞は幸運
だったかと思える。同時受賞は梅崎春生の「ボロ家の春秋」梅崎
も、まさかこれで受賞とは思っていなかっただろう。
思い出の旧制山形高校の現在、山形大学を訪れた時の戸川幸夫
さん。
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