高橋茂『氷川丸物語』1978,数奇な客船の奮闘の生涯、横浜港、山下公園に係留の由来
横浜の山下公園に行くと即座に目に入る係留されている、
「氷川丸」だが、その由来、船歴はどうなのだろうか。い
つか、もう10年以上前、11月、温かい横浜だった。私も山下
公園に行った、・・・・・その「氷川丸」だが見た目には何
のさほど変哲もない貨客船のようだがそれほどの理由が本当
にあるのだろうか?という疑問も覚えたものだ。その疑問
がこの本でかなりの部分は解けた。著者の思いが込められた
大変な労作なのである。
ラバウルの空には灼熱の太陽、紺碧の海には船体を真っ白
に塗って赤十字マークを輝かせる病院船が浮かんでいた。高
橋さんはマラリアに罹り、高熱にうなされて、うつろな目で
その船を見たという。それが氷川丸と高橋さんの初対面だっ
た。戦局はすっかり悪化し、ラバウル航空隊も機能を失った
に等しい1944年、昭和19年1月末だったという。
完全に守勢に回って米軍に押しまくられ、輸送船は片っ端
から撃沈され、世紀の病院船さえいつ撃沈されるかわからな
い緊迫の状況だった。日々、船底一枚に命の重さをかみしめ
た。長い航海、氷川丸は無地帰国したが、奇蹟とさえ言われ
た。以来、高橋さんと氷川丸は命拾いした船として忘れられ
ない存在となったという。
助かった、生き延びた高橋さんは全国紙の記者として各地
に赴任した。長崎、長崎、小倉、宇部、熊本、別府、浜田、
栃木、さらに1970年2月に最後の赴任地、鎌倉へ、そこで高橋
さんは初めて聞いたという、氷川丸が横浜の山下公園に係留
されている!それを知って山下公園に駆け付けた、そこにあっ
た、まぎれもない、氷川丸。
ここで咄嗟に高橋さんは「氷川丸物語」を書こうと決心し
たという。この船には、もっと何かがある、長い新聞記者生
活からそう睨んだそうだ。軍艦にまつわる本は多いが、客船
についての本はあまりないものだ。高橋さんは定年退職の5
か月前から休みを取って取材を始めた。だが氷川丸、肝心の
戦時下の記録、ほとんど記録がない。当時の防衛庁、厚生省
にも見当たらない。結局、往年の関係者を個別に訪問して
取材しかなかった。
横須賀に鎮守府があったころ、病院船「氷川丸」にかかわ
ったという人たち、客船時代にゆかりのあった神戸の人たち
、さらに船の取材に信州の山奥まで関わった生存者を訪ねた。
足で書いた 本と云える。
病院船時代と引き揚げ船時代の関係者が、ともに氷川会を
作り、例会を開いているとも聞いて、出かけ、当時の日記を
探したり、写真を貸してもらったり、十分な協力を受けた。
300人近い人たちに会って話を聞き、資料を集め、徐々に、
おぼろげながら「氷川丸」のイメージが浮かんできたとい
う。睨んだ通りの数奇な運命に翻弄されていた。
「氷川丸」は昭和5年、1930年日本郵船のドル箱路線だった
シアトル航路に就航のため横浜ドックで建造、12000トン、18
ノットの豪華客船で、姉妹戦に秩父丸、日枝丸が続いた。
実際、当時千円で十分な一軒家の新築が出来た時代、氷川丸
の運賃は一等船室が500円、ツーリストキャビンは250円と非常
な高額だった。昭和7年、1932年には映画『街の灯』を撮影後、
来日したチャップリンを横浜からアメリカまで乗せた。この来
日時、チャップリンはあやうく五・一五の反乱兵に襲撃されそ
うになったという逸話がある。船員の日記ではそのときチャッ
プリンはカレーライスと天ぷらを毎日のように注文したという。
講道館のあの嘉納治五郎は1938年、東京五輪誘致運動の帰国
途中、横浜到着前、二日前に船上で病死したという。
その後は横浜港での観艦式の拝艦船となったり、ロンドン軍
縮条約の文書を運ぶなど、、多くの活躍をしたという。
高橋さんが出会った病院船時代、山本長官も来船した。当時
の芸能慰問団の一員で佐藤千夜子も乗った。通常はここらで船
としての耐用年数も突きそうになるが、戦後は引揚船になり、
栄誉失調の元兵士たちの飢餓船の様相を呈した。さらに昭和22
年、1947年からは北海道航路に就航、さらに昭和35年、1960年
にフルブライト留学生を乗せて横浜港を出港、すでの船歴は30
年を超え、機関はとおにボロボロ、翌年、1961年にやっと山下
公演に係留された。
この本を書き終えて高橋茂さんは過労でた倒れた。
「氷川丸に助けられ、氷川丸で倒れました。しかし今は氷川丸
に恩返しできた気持ちです。姉妹船は全て撃沈されました。でも
氷川丸だけ生き残ったのです。」
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