小泉信三『海軍主計大尉 小泉信吉』戦士した愛息の短い一生を感慨を込めて直視

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 平成天皇の御成婚にも尽力した元慶應義塾塾長、経済学者
、小泉信三氏の父親はやはり塾長でもあった小泉信吉(1849
~1894)長男も小泉信吉(1918~1942)父親の信吉は「の
ぶきち」、長男は「しんきち」と読む。私家本として300部
印刷、小泉信三氏の生前は公刊しなかった。文藝春秋から、
信三氏の死後、刊行された。

 海軍主計大尉の小泉信吉は、大正7年、1918年1月17日、当
時の慶応大学教授、小泉信三の長男として鎌倉町笹目谷の吾
妻産婦人科病院に生まれた。7歳で京王幼稚舎に入学、同普通
部を経て大学予科に21歳で大学経済学部に入学、昭和16年、
194年卒業、三菱銀行に入社、在籍のまま、海軍けり学校に入
校を志望、許されて昭和16年8月、海軍主計中尉に任ぜられ、
第七期補修学生として入校、12月8日、卒業試験中に対英米戦
争勃発、重巡の那智に配乗、出征した。

 昭和17年8月8日、八海山丸に移乗、そのまま家庭に戻ること
なく、10月22日、南太平洋方面での戦闘中に敵弾を受けて戦死、、
性格は明朗、スポーツ、読書、音楽、絵画を趣味とし、幼年か
ら海軍を好んだ。慶應義塾卒後、三菱銀行での勤務期間は四か
月であった。享年25歳。

 以上はもし、第三者が簡潔な略伝を書くならこうなるだろう。
大東亜戦争での陸海軍の戦死者は莫大である。もし戦争がなけ
れば、少なくとも予備役のまま、軍以外の職業についていた人が
多かったっはずだ。小泉信吉大尉は、社会生活は四か月、とにか
く名門の子弟なので海軍大臣以下、連合艦隊司令長官などによる
特別の弔問を受けた。しかし、それだけで終わったら、無数の若
くして戦死した中の一人として、家族、友人らだけに記憶に残る
のみだったろう。

 父を語る子は多いが、子を語る父は少ない。小泉信三は故人と
親しかった人たちだけに分かつつもりで、私家版としてこの本を
作った。

 「若し、常の世に生きたら、彼は日々銀行の勤務に務め、余暇
を以て読書し、できれば著述し、妻を娶り、父となり、運が良け
れば順当に出世して老境に至る一生を送ったであろう。その信吉
という男が、南太平洋状で敵弾に当たり、艦橋で倒れるとは、実
に思いもかけぬことであった・・・・・」と云う信三氏の言葉には、
子を失った遅々としての感慨や動乱期に生きる運命にあった人間
の気持ちがあふれている。

 まことに読めば、そのような名門とは全く無縁の市井のものでも
感慨に襲われそうな思いに満ちている。日本の名門の家庭の空気も
かなり分かる本である。山本五十六の子息が父を書いた本とつい、
比べてしまった。ともあれ戦没者をしのぶ本として類例ないものだ
と思う。

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