自分探しの旅の過酷さ、幻滅と絶望の果てに
人生は「自分探しの旅」というのは確かに魅力的な表現で
ある。人生は曲がりくねった道の彷徨、災難、不幸が雨あら
れ、それを振り払うだけで人生が過ぎてしまう、でも、それ
でも結果、過ぎてみたら、人生が全く無意味で自分が窮極の
無為無能で、才能なんか何もなかった、・・・・・、まさに
茫然自失、とならないように、と言いたい気もするが現実は
そうなっているのは否めない。
いくらなんでも運が悪すぎる、今から思えば育った家庭、
また親は北朝鮮の強制収容所、監視兵みたいなものだった、
と、これも唖然である。どこにでもあること、とは到底、思え
えない、もち産院で取り違えられていたら、凡庸でも普通に
生きられた、と思っても自宅出産じゃどうしようもない。生
まれたらすぐに、森永ヒ素ミルク中毒の洗礼に始まり、まった
くその後も散々、・・・・・そりゃ、特別な名門に生まれても
小泉信吉さんみたいに、戦時下という時代ではどうしようもな
いし、しょせん、人間は運命に翻弄されるという生き物であろ
う。
涙を流しながら玉ねぎの皮むきをしていったら、中心には何
もなかった、・・・・もちろん、赫々たる業績をのこし、名誉
に飾られた人生という人もいる。人生でわかったことが自分の
無為無能、何の才能もなかった、と云う発見だけという人間が
救われる何か、どこかに意味があるのだろうか。表向き、汲々
と生存競争に揉まれただけ、結果は、・・・・
だが人生なんてそれでいいと思う以外にない、だろう。自ら
の非才、無能ぶりを思い知るのも人生の功徳というものである。
自分探しの旅が苦渋に終止しても、だれにとっても安易な道な
どないのであるから。生きるのは自分、何の才能もない自分で
ある。あるがままの自分を認めることにのみ、救いはある。人
生で学んだものがそれであっても、恥じることもないという、
ことである。生きたことは事実だが、無意味の一語、それこそ
自分探しの旅の王道だ。
自分探しの旅が幻滅と絶望の果てに、何かに最後、辿り着け
たとしたら、それこそが旅の与えてくれた真実なのだ。
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