埴谷雄高『虚空』1961、短編集、小説の枠を踏み外して、とことん現実嫌悪、人間嫌悪

本名は般若豊、ペンネームは埴谷雄高だが「般若」なので
ある。ただならぬ本名はその作品をも暗示する。1961年に刊
行された短編集であるが、全て世の常の「小説」の概念を全
く踏み外している収録の『洞窟』の主人公は、「或る家の二階
に蝸牛のように閉じこもっていた頃」、毎日のように聞こえて
いた隣家の少女の早口のおしゃべりに、いわれのない憎しみを
感じているが、その理由はその少女の話し声が「障害も焦燥も
知らない傲然たる」日常生活の象徴だからである。これは要は
作者の般若、埴谷雄高の態度であり、徹底した現実嫌悪、人間
嫌悪なのである。これは収録全手の短編に共通である。
夢想家的な小説家が現実を嫌悪は当然だろうが、埴谷は嫌悪
するものを一切拒絶してしまうのである。その世の実在の彼方
にある神秘的な「虚空」の逃れさろうとする執拗な努力を綿密
の述べているのである。
『意識』という作品の主人公「私」は暗闇の中で、一人目を開
け、自分を取り巻いている闇は宇宙の果までつながっているから、
その巨大な円周から見れば、自分が昼間野原でもてあそんだ黒い
小石と同じ存在だと考える。つまり宇宙によって実在を否定しよ
う意思がそうさせているのだろう。
また、この「私」は、眼球を圧っし続けると、そこに現れる光
の幻覚は、現世の外に「意識」が逃れ去るという自発的な働きを
発見し、これが「自由」の証だという。ここでの主人公は「私」
でもなく横に寝る娼婦でもなく、「意識」そのものなのだ。
般若、埴谷雄高は戦前において左翼運動に関わり、「転向」し
た無教会派のマルクス主義者になった人だが、この中の作品も、
弾圧された獄中体験が影響しているのは否めない。難関な論理の
裏にはその苦渋が潜んでいるとしか思えない。
だが埴谷雄高のどうも欠点といえる相当に稚拙なドストエフス
キーの模倣がある。埴谷はドストエフスキー通と思われて岩波書
店が岩波新書で「ドストエフスキー」執筆を依頼したが、ついに
書けずに終わった。大げさな会話、身振りはその翻訳の文章の欠
点を継承した?かのようだ。「あっは」などの奇妙な間投詞を入
れる手法で日常性を奪いたかったのか。
エドガ・アラン・ポーの「メエルストローム」を真似たような
『虚空」は、ポーにおける海の代わりに台湾の高山、渦巻きの代
わりに「つむじ風」、で珍しく克明な自然描写、荒涼の美と旋風
の運動とのコントラストは、真似とはいえ、なかなかいいようだ。
日本近代文学の伝統にこれほど背を向けた作家も珍しい。読者
から見れば好悪は相当にあるだろうが。
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