石井好子『女ひとり巴里にぐらし』河出文庫、芯の強さを感じさせる

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 石井好子さんは大正11年、1922年生まれ、父親は神戸高商
卒の石井光次郎氏、戦後は衆院議長、法務大臣、通産大臣な
ど多くの要職を歴任された。石井好子さんは東京音楽学校声楽
科を出てシャンソン歌手の道へ、戦後、1950年、アメリカを経
てフランスへ、「ナチュリスト」というパリの歌手の専属歌手
に、ともあれ通常の日本人を考えたら当時の状況を思えば規格
外の経歴である。多くの著書がある、まだ大戦の混乱も冷めや
らぬ時期、のパリでの生活についての本である。初版は1955年
であるが現在は河出文庫で入手できる。

 「ひとりで外国にいるのは寂しいな」と、ふと思うことがあ
るとも、パリの同じ下宿に義理の姉、とみ子とその一人娘のユ
キと住んでいる。だから一人暮らしではないのだが。

 夜の10痔15分眼、支度をしてエレベーターのボタンを押すと
、ゴトゴトと音を立てて這い上がってくるのを聞いて、とみ子
が同情する。「もうなっれこ、平気よ」とパリの盛り場にある
キャバレーのナチュリストへの楽屋へと急ぐ。

 「しがないキャバレーの歌うたいと眉をひそめる人もあるで
しょうが、何と云われてもいいのよ。私はその入口を入るとき
は胸を張っていた。自分の心を込めた仕事に立ち向かう誇りを
もって」と述べている。

 石井好子さんは1953年5月2日から翌年4月30日までの一年間、
ナチュリストというキャバレーのレヴューーで歌っていた。着物
ともチャイナドレスつかない、奇妙な衣装で日本人の客が来たと
きは照れくさかったという。二時間半のショーを二回、行う。そ
こで六回、衣裳を着替える。重労働である。一年休み無しという
契約で、毎日500フランの収入である。男子禁制の楽屋には40人
もの女性がひしめいている。医者が週に3回来て、医者の証明が
あれば九割引で薬を購入できる。

石井さんは契約で知人以外のお客のテーブルには一切、招待され
ない、という一札を入れたという。堕落には適したキャバレーで
ある。給料が少ないだけではない。平均年齢21歳という女性たち
の集まる楽屋、キャバレーであるから衣服から何から欲しいもの
はいくらでもある。この辺の事情も石井さんは的確に見抜いてい
るようだ。

 舞台から引き揚げてくるダンサーたちが「日本人が来ている」
と教えてくれるが、さりとてアジア系の人たちの国籍まで判別で
きるはずはない。ある時、半信半疑で舞台に出たら三益愛子、川
口松太郎夫妻が最前列にいて仰天したという。だが財布をすられ
たと云って石井さんから大金を借りていった日本人が、そのまま
音沙汰がなかった、などという苦渋もあった。でも石井好子さん、
やはり只者ではない。

 さすが光次郎さんの娘さん、という芯の強さは多くの点で感じ
る。楽屋生活、シャンソンの町、ダミアを訪問したときの話、パリ
の市民生活、筆致は本当に淡々としている。異教で基本、単独で生
きぬく強さはよく現れている。ダミアの歌はコンサートでもよく、
歌われていた気がする。だが1955年に引退したダミアである。

 1955年、再度、渡仏、マルセル・マルソーを楽屋に訪ねた
石井好子さん


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