叔母が故郷をでた意外な理由
母は私が生まれてすぐに次男である私に憎悪を抱き、それ
はまさしく母の本能のように存在し、その発現の変動はあっ
たが、死ぬまで一貫して堅固に存在した。全く異常極まる話
だが、現実そうであって、ちょっと他に例がない気がする。
最終的にその理不尽の極限は全て自身に跳ね返ったのである。
ともかく幼い頃、私を閉じ込めなど、あまりに虐待を繰り返
す光景を見かねて、叔母、父の妹が大阪に私を預かろうと云
った。だから一年保育に入るまで、私は大阪の叔母のところ
に何度も行って長く滞在した。兄はその頃は全く行っていな
い。要は母親の虐待から引き離すという、叔母の配慮があっ
たのだが。当初は当時の国鉄の東淀川駅、現在は新大阪駅
から500m?ほどという東海道線の至近距離にあるが廃止さ
れてりない。
ではなぜ叔母が故郷の矢掛町を出たのか?同じ町内の木工
店に嫁いで姑との諍いがあった、ことも事実だが、実は叔母
の心を大きく傷つける事件が起こったからである。
戦後の警察はまだ戦前の気風を受け継ぎ、拷問的な取り調
べで冤罪を数多く生んだ悲劇がある。おいこら警察、無実の
人を脅して冤罪の悪の華をあちこちに、である。
叔母は矢掛高校を出て岡山市の平田洋裁と云う専門学校的
な学校に、だから衣料品には関心が高かった。そこへ矢掛町
に衣料品の行商?というのか、よくわからないが衣料品を売
り歩く中年女性が現れた、叔母はとにかく人情に篤く、すぐ
同情するたちだった。それでその衣料商の女性のために販売
に協力した、無論、善意である。そうしたら矢掛警察署、今
は廃止され、井原警察に統合されているが、・・・・その衣
料の女性は詐欺師だ、といって販売に協力した叔母を詐欺の
共犯だとして逮捕拘禁という事態になった。
叔母にすれば青天の霹靂である。全く詐欺など、思いもよ
らない。本当にあの行商的な女性が詐欺師だったかどうかは、
警察のいいがかりだった、はずだ。でも今でもその傾向はある
が、戦後まもなくの警察はひどかった、叔母を拷問し、留置場
に一週間ちかく拘置したのである。
これがいかに叔母を怒らせ、悲憤慷慨させたか、計り知れな
い。叔母が反権力的だったのは、このときの警察からのひどい
扱いがあったからといって間違いない。それでもう矢掛町から
離れたいと考えた、姑との折り合いも悪いし、よく述懐して
いたが「箸だけもって大阪に出た」という。それでよく、私を
預かってくれたもので、そこでイヤな思い出は何もなく、京都
や中座に連れて行ってくれて、生涯の思い出が作られた時代と
なった、・・・・変えればまた元の木阿弥の般若面の母親の、
激しい虐待いじめ、だったから、なおさら、である。
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