いまコリン・ウィルソン『アウトサダー』を考える、「積極的アウトサダー」論!、24歳で「体当たり」で書いた著作

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 コリン・ウィルソン(1931~2013)あまりに著名であるし、
「アウトサイダー」と云う言葉を広めた、最初の著作「アウト
サイダー」こそがその思想の真髄ということは間違いない。そ
の後の著作もその上に乗ったものである。その影響はあまりに
大きい、キルケゴールの「例外者」い?除け者?疎外された者
?それじゃ当たり前すぎる。コリン・ウィルソンの「アウトサ
イダー」が「例外者」Die Ausnahmeを含むのは事実、だがそれ
以上の積極的な意義づけを彼は行った。

 「アウトサイダー」自体は一般的な言葉であるが、ウィルソ
ンは独自の意義を与えている。「社会の外にあるもの」は通常
の意味、世俗的知性や打算的な俗物性、常識的道徳の作る現実
の秩序をを否定、・・・・・位は通常の意味だろうか。

 秩序の中に安住する者が「インサイダー」であるのに対し、
これを否定する者はその外に置かれてしまう。自らの意思で
そうなることもあるが、外に無理やり押し出されてその結果と
いうこともある。両方の要因が共存するだろう。コリン・ウィル
ソンの云う「アウトサイダー」は従来のキルケゴール流の惨め
な疎外された者、仲間はずれにされた者という、ありきたりの
意味を超えて秩序に対しての「強い自己肯定の積極的な)意思で
、既存秩序に拒否を突きつける、ところに真髄がある。

 『アウトサイダー』はそういうアウトサイダーの系譜を、はじ
めは文学作品の中に、次は現実の人間伝記の中に追求したもので
ある。それにしてもコリン・ウィルソンの読書量には驚く。

 まずバルビュスの『地獄』の人物に始まり、、次にウェルズの
晩年の絶望の書、サルトルの『嘔吐』カミュの『異邦人』、ヘミ
ングウェイの主に初期の作品、さらにヘッセを中心におびただし
い、ロマン派の詩人に及び、転じてT・E/・ロレンス、ニジンスキ
ー、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ、トルストイ、ドストエフスキー、
ブレーク、ジョージ・フォックス、ラーマクリシュナ等など、全
く枚挙にいとまがない引用である。さすが日本人はいない。作品
や著述を通じて、人間そのものの生き方を辿っている。

 つまるところ、コリン・ウィルソンのいうアウトサイダーとは、
単に仲間外れされた引きこもり的な陰気な人間、消極的な人間で
はなく、積極的な意思をも伴う否定論車であり、

 さらに積極的なアウトサイダーの存在意義を、単なる否定者で
はなく、むしろ進んでアウトサイダーの積極的意義を探究する、
それが『アウトサイダー』の意義である。第四章からは現実の人
間を論じるから明瞭になってくる。
 
 無論、アウトサイダーの生きる意義は、否定した秩序への妥協
であったり、後退であってはならない、ことは当然だ。コリンは
まずT・E・ロレンス、ニジンスキー、ゴッホなどのまさに悲壮な
闘いの挙げ句、ついに敗れたアウサイダーたちを考察する。ニジ
ンスキーは発狂、ゴッホは自殺、ロレンスも自殺同然だ。

 継いでニーチェ、トルストイ、ドストエフスキーなど、その生
き方は異なるが、妥協も後退もなく、むしろアウトサイダー的な
意義を徹底し貫くことで、自由な意思による偉大なる生の充実に
到達した生き様を描き、最後はクエーカー教の創始者フォックス、
インドの神秘的宗教家、ラーマクリシュナというような人物を考
察、これまた徹底的な現世否定の上に立ち、ついに無限に自由な
肯定の生き方に解脱した「幻の人」の生き様を扱う。

 端的に言うなら、『アウトサイダー』は徹底した、反俗世知性
主義、さらに楽天的理性主義否定の叫びである。

 考えてみたら特段に新しい発想、思想でもないが最後に「宗教
的」なものに何かを求めているのも凡庸の誹りは免れないと思う
が、でもわずか24歳でこれだけ体当たりでものが書けた、その読
書量、努力はすごいと想う。
 
 批判しようと思えば例えば、社会思想的な視点、が全く入って
いないこと、それはコリンが拒否したということだろうか。また
読書量はすごいとは言え、典型的インサイダーだったウェルズを
強引にアウトサイダーに加えているのはおかしい。ニジンスキー
、ロレンスを一絡げ的なまとめ方は奇妙だろう。

 読書量はすごい、だから引用も多量だ、しかしこの執筆態度に
は疑問も湧く、最初から先入観で読書をしているのでは、という
「素朴」な疑問も湧く。

 とにもかくにも、・・・・・体当たり的な著作だ、私がバイト
時代、大学中退だが哲学的な本を数多く読んでいるやつがいて
「『アウトサイダー』を貸してやろうか」その言葉が今も印象に
ある。あいつはどうしえちるのか、神戸で阪急六甲あたりに実家
がたた。

 日本のようにアウトサイダー思想は不明瞭で、私小説の陰気さ
に低迷するお国柄、それでこの強烈な本は日本の曖昧模糊の欺瞞
への解毒剤になる。

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