井上靖『蒼き狼』1960,大岡昇平に因縁をつけられたが、井上靖の最高傑作だろう。際立つテーマ性

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 井上靖n『蒼き狼』は非常に著名な作品である。だから歴史
を興味本位に面白おかしく創作した通俗的な作品?と思ったら
大違いだと思う。井上靖の歴史小説は舞台は様々だが、『蒼き
狼』は見事な作品で傑出している。「元朝秘史」や多くの資料
を丹念に研究の結果でもある。無論小説だから独自のテーマ性
が必要になる。

 だが『蒼き狼』というとすぐ大岡昇平の『『蒼き狼』は歴史
小説ぁ」という、多分に言いがかり的な論評でも知られている。
これは「歴史小説」といえば何かと文句をつけまくった大岡の
余計な所業である。だから、これが「大岡昇平が文句をつけた
くらいだから、興味本位に歴史を改竄したような通俗的な作品
なのか?」という誤解を生じさせた、面は否定できない。・・
・・・・が全く違う。真摯な傑作である。

 真実の歴史がどうであったか、事実関係は正確には、・・・
知る由もない。残された資料を研究するのみであるが、その真
実性もまた現代人が確証はできない。偽善でなく真摯でリーズ
ナブルな解釈を行うしかない、無論それが、事実だったかどうか、
それはわかるはずはない。

 『蒼き狼』はモンゴル帝国の創始者で元朝の太祖であるジンギ
スカンの生涯を描いた小説である。井上は、モンゴルの小部族の
首長の長子として生まれた主人公が、比類なき英知と勇猛さで、
異常な困難と闘いながら、ついに史上空前の帝国を建設するに至
る経過を国名に物語り、そこに二つのテーマを設定しているよう
だ。

 一つは女性への深刻な不信感である。「男たちは戦闘で命を
失うことも多いのに、女たちは例外なく戦いに負けたら敵方の男
に付き従う」。ジンギスカンの母ホエルンも妻のボルテもそうだ
った。そのため彼は自分や、我が子のジュチの体に流れる血はモ
ンゴルの血ではなく、宿敵のメルキトの血ではないかと絶えず苦
しむのだ。それによって彼は敵方の女に常に凶暴で残虐な態度を
摂らせた。

 ところがメルキト部族きっての美人といわれる忽蘭(クラン)の
激しい抵抗にあって、「もし、汝が汝の妻に対するよりさらに
強く、さらに大きく私に愛情を持つなら、汝は私の体を奪うが良
い。もしそうでないなら、どんな手段を用いても私は汝のものに
ならない」といわれ、彼は忽蘭を心底資するようになった、とい
い、彼女の希望で、ヒマラヤの向こうまで遠征しようとなった」

 資料も活用しつつ、小説としての楽しみも兼ね備え、人気沸騰
が大岡昇平を刺激した、のだろう。

 第二のテーマはモンゴルの太祖は蒼き狼とナマ白い雌鹿との間
に生まれたという民族の伝承によって、もし彼が真にモンゴル人
なら、50歳になると狼になると教えられ、ひたすら狼になろうと
すること、である。「蒼き狼は敵を持たねばならぬ、敵を持たね
ば狼は狼でなくなる」と信じ「狼の群れは、興安嶺を超え、アル
タイを超え、天山を超え、祈連山脈を超えねばならぬ。蒙古高原
のあらゆる帳幕を美しく、より立派にするために、我々はそれを
なさねばならぬ」と宣言する。

 これ他のtレーマがうまく重なり、物語は展開するが、宿敵を倒
すたびにその夢が壮大になって、行動が豪胆であると同時に慎重
細心になるという過程が見事に描かれる。

 激しく生きた人間を描きたい、という井上靖の念願はジンギス
カンというまさに、それに適した歴史上の人物を得て空想と野心
を思うままに広げたようだ。「敦煌」で西夏の歴史の空白を想像
力で埋めたが、なぜモンゴル大帝国が出現した?という疑問への
井上流の解答でもある。事実かどうかは無論、確証はないが、小
説としては傑作と言って何の過言もない。それへの嫉妬が大岡昇
平である。

 『敦煌』と共通性をもつが、別の作家の作品では奇妙だが、
吉川英治の『鳴門秘帖』ともモチーフで共通性があるように思え
る。

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