昭和天皇、日本人向け公式記者会見(1975年10月31日)での真意を考える

昭和天皇は1975年9月30日から15日間、訪米された。帰国後
、今度は初めての日本人向けの記者会見に応じられた。1975年、
昭和50年、10月31日、皇居「石橋の間」において。なにしろ戦
前、天皇は「人間」でなく「神」とされた。戦後、(本当に事実
かどうか、疑問はあるが)昭和天皇は「私は人間である」と宣言
された。「神」と教えられていた日本人は、全てではないが、
大多数が天皇、昭和天皇は「神」だと思っていた、というのか、
そのように考えるしか許されない時代だった。明治以降の近代
国家、しかも絶対主義下における「天皇」は江戸時代までの「
天皇」と全く異質な存在になってしまった。
日本人向け記者会見
昭和天皇「テレビは、いろいろ、えー、見ていますが放送会社
の競争があなはだ、えー、激しいので(笑い)いま、どういう番組
を見ているかについては答えられません」
これで会場を爆笑の渦に巻き込んだ。実際、昭和天皇の横顔
は茶目っ気さえあり、人間味に溢れていた。戦前は笑うことさえ、
実は許されなかった昭和天皇である
それまで昭和天皇は「刑事コロンボ」のファンであるとの噂
が流れていたが、それも結局、事実かどうか、不明となった。
昭和天皇は訪米された折も記者会見に応じられている。「日本
の国民性とアメリカの国民性とは非常に違うところがあります」
との昭和天皇のご指摘もごもっともではある。なにせ、明治以降
の日本という国の国家原理に天皇という存在が政治家の意図であ
あったが、過剰になりすぎたことは否めないだろう。その流れの
戦争の続いた明治以降から終戦まで、日本国民にの感情は複雑と
ならざるを得ない。
この日は日本記者クラブ(当時、新聞、通信車143社が加盟)との
公式会見では12項目の質問が宮内庁に事前に提出されていたが、
宮内庁からのクレームはなかったという。
代表質問者になったのは渡辺誠毅、朝日新聞社副社長であった。
渡辺氏は当時の思いを「戦中派ですから、やはり緊張しました
よ」つづけて
「国民の中には、昔の天皇制の復活を願うような立場の人や、
逆に象徴としての意義も認めない、という立場の人もいます。し
かし大部分の国民は、戦後の新憲法における象徴としての天皇制
を支持し、敬意を払っているわけです。いわゆる戦争責任につい
ても、陛下は御前会議で、陸海軍の統帥部に遺憾の意を表されて
いる。そして明治天皇御製の『四方の海みな同胞と思う世になど
波風の立ちさあぐラム』を拝誦されておられます。陛下は平和を
望んでおられったことは国民はよく承知しているんですよ。
だから今回はご訪米の感想などを中心に、大多数の国民に代わ
って聞くということですから、むきだしの戦争責任論などはやる
べきでないと判断したのです」
確かに奥歯に物が挟まる、のはやむを得ないし、ご訪米後の記
者会見ということもあるから。過剰に聞けないのわかるが、その
ように単純に「平和を望んでおられた」で言い切ってしまうには
歴史はあまりに複雑で魑魅魍魎である。
林房雄のように「天皇は国民とともに戦われたのだ」との考え
は、実は至当である。始まってしまえばそれは当然だろう。
昭和天皇が一語一語、記憶をたぐられて割にスムースに答えら
れたのは、この代表質問であった。だが会場では昭和天皇への
関連質問が三件行われた。お答えに「えー」という間投詞めいた
言葉が入ったのはこのためである。
最初の関連質問、宮内庁づめのNHK記者、明神正氏
「私はご訪米のお供をしましたが、一番苦労したのは例の生物学
の分野、それは学問上はラテン語ですから、学名がでてきて困りま
下、陛下には長年の謎が解けたこともあったそうで」
とまあ、生物学者としての昭和天皇に敬意を払い、まずは得意分
野で陛下にリラックスしていただこうという配慮が実は仇になった
ようで、昭和天皇は「えー」の連発でか公式会見で最もぎこちない
部分となってしまった。
で、代表質問が「戦争責任」を全く避けたわけでもない。中盤で
渡辺朝日副社長が「不幸な戦争のことでございますが」と切り出し
「焦土から立ち上がって見事な復興を果たした日本国民にこの際、
お言葉をお願い致します」
で昭和天皇はこの非常に意義深い質問へは
「そのことについては、毎年は8月15日に私が『胸が痛むのを
覚える』という言葉を常に述べています」、さらに日本の復興に
ついては「嬉しく感じます」とだけ、至ってそっけなかった。
外国人プレス枠で出席の中村浩二記者の関連質問
「ホワイトハウスでの『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』
という発言がございましたが、その言葉との関連を含め、戦争に
対する何らかの責任をも感じていらっしゃると解してよろしゅう
ございますか」
中村記者は当時は外国通信社の東京支社長だったが。毎日新聞
の出身であり、従軍記者も体験した戦中派である。「戦争の勝ち
負けは関係なく、そのことだけは戦時中からお聞きしたかった」
というが、「戦争責任」という言葉を昭和天皇が広い意味で極度
に警戒している、ことを窺わせる答えが返ってきた。
「そういう言葉のあやについて、私はそういう文学方面はあま
り研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう質問に
ついてはお答えできかねます」
実のところ、『不幸な戦争』を英訳で I deplore とされたこと、
、それについての答えだったということである。「ディプロアー」
問題への答えが「言葉のあや」、「文学」となったわけで、さす
がに『戦争責任」を「言葉のあや」とか「文学方面」とは云われる
はずもない。二つの質問が重なったことの、不首尾な結果ともいえ
るのだが、では関連の「責任論」についてはどうであったか、であ
るが、即座に昭和天皇ははぐらかした、と云うべきである。「戦争
責任」は多重的な意味で昭和天皇にとってタブーなのである。
中村記者はこうつけくわえた。
「陛下、これは文学の問題ではありません。明治以降、天皇は
軍隊の大元帥でした。すべては陛下の命令であり、それなくして
一兵も動かせない。撤退も陛下の決断、大命がなければ撤退でき
せんでした。個々の作戦にも陛下はほぼ大半に関わっておられま
した。そう私は続けたかった、だが私の質問を陛下は事実上、パ
スしたに等しかった。陛下だけが趣旨を誤解された、とは思えま
せん。陛下も宮内庁も予想していたはずです。・・・・・私の一
人の老人を今さらとっちめようなどとは考えませんよ、それは
お可哀そうです。でもそれは歴史の本質論ではない。実際に答え
ていただけるかどうかは別にして、記者としてどうしても質問せ
ざるを得なかった」
陛下!国民に対し、何か琴線にふれるようなお言葉を!戦中派
に限らず、国民ならそう思ったであろう。その気持と中村記者の
気持ちはかけ離れてはいない。
被爆地の記者としては当然の質問、として広島の中国放送
秋信利彦記者
「戦争終結にあたって原子爆弾投下の事実を陛下はどう受け止
められておられましょうか」
昭和天皇は「遺憾なことだとは思っていますが」戦争中のこと
だし、被爆市民にたいして気の毒にはお思うが
「やむを得ないことと私は思っています」
中途の渡辺副社長、さらに(中村記者、秋信記者の質問がメイン
となったが、それらに対し、昭和天皇の気持ちも分からぬでもな
いが、いかにも誤解を招きやすい「舌足らず」的な答えが目立っ
たと云わざるを得ない。戦争だからどうにも仕方がない、原爆投
下もその範疇、だから「やむを得ない」これは戦前の大元帥、軍
の最高位にある者として国民を守れなかったことへの責任ある言
葉ではないと思われる。実は戦後も続いた昭和天皇の政治行動、
アメリカに「沖縄米軍駐留っを呼びかける」書簡を送っていた
ことなど、「沖縄はアメリカが統治すべき」とも、これを聞いて
国民はどう思うだろうか。
全部で30分弱と短い会見だった。
この記事へのコメント
己の保身だけを考える特権階級に、あれだけの敬意を払う日本国民はどれだけお人好しなのだろうと呆れてしまう