小堀杏奴『朽葉色のショール』1971.全体的に幸福は何かを追求した随筆集

申すまでもなく小堀杏奴は森鴎外の次女である。したに弟の
類がいる。上な長男、森於菟、森茉莉がいる。昭和11年、1936
年お処女作『晩年の父』以来の、何冊目かの随筆集である。こ
の本では前半、後半に分かれていてそれぞれ27篇、12篇の随筆
が執筆年代順に並んでいる。
執筆された時期は長く、昭和31年から昭和46年、1956年から
1971年にまで及ぶ。だが筆者、杏奴さん筆致にはほとんど変化
が見られないようなきがする。本当に沈着で落ち着いていると
いえる。
ただ15年間の歳月がその中にあるだけに、筆者の身の上には
大きな変化もあったようだ。その大きなものに、弟が、なかよ
しの弟の類が著書で暴露した秘密の数々、杏奴の不成績を母親
は大いに心痛としていたとの記述で、杏奴は類と絶縁した。
さらに杏奴の信仰がある。昭和33年9月に書かれた『家庭の
幸福』の中で「私は信者でもなく、また洗礼されてもいないけ
れど」とある。昭和34年1月に書かれた『人間ペリ』の中でも
「私は信者ではない、洗礼も受けていない、教会へ毎週一回通
うようになったのも、友達のある奥さんに誘われたからである。
それも太宰治が大好きで、その作品について神父さんが離して
くれるから、それで出席した」とある。
そこには娘のM子のことも書かれていて、M子もまだ洗礼も
受けていないが、キリスト教については「一日の長」があると
いう。
ところが昭和46年6月に書かれた「因縁」では、「カトリック
の信仰を得るまでは、人生に対してはっきりした目標を持つこと
が出来なかった私」、「わたしは受洗のお恵みをえて信者となっ
た」とある。
やはりこれは重要なことであり、鴎外が亡くなって以後の生活
を「私の青春は、暗い惨めな日々であったと思う。家庭らしい暖
かさも微塵もない、私達の生活だった」とか「私は早くに父を失
い、未亡人で気性も荒い母と、また結婚に失敗し、虹を残して実
家に帰った姉の茉莉、神経質で丈夫でない弟ともに暗い青春を送
った」とある。
「その頃の私は、いい結婚相手に恵まれるとも思えず、心の中
で一生、独身を通すしかないと思っていた」とあるが結果は良き
相手に恵まれ、二人の子供も生まれ、戦後の経済混乱で電話も手
離すという不如意な生活の中で、家庭の団らんを大切にしてきた
のである。
そういう家庭の幸福をより堅固とするため、著者は著者なり、
つまり杏奴さんは幸福を考え、その結果の入信だったわけである。
本書は全体として幸福論をテーマとしているようだ。
幸福論の手がかりとして、杏奴はその祖父、森静男の「足るを知
る」生活態度ぉ上げている。晩年の鴎外の生活もそれに従っていた
という。
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