山崎豊子『花のれん』1958,吉本せいを描き、ウケ狙いでドギツすぎるが大阪人の体臭が匂う

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 さて、山崎豊子の『花のれん』、第一作の『暖簾」に続く、
第二作だが、「のれん」でも内容は関係がない。『暖簾』は
何だか饅頭本みたいな評伝めいたものだが、『花のれん』は
お馴染みすぎる「吉本せい」、吉本興業の創業者である。
吉本せいは1950年、昭和30年に亡くなっており、それを待っ
て発表した、と思われる。60歳没だからお世辞にも長生きで
はなかった。しかし、『暖簾』、『花のれん』から既に、ど
こまでも「資料収集」にかける、という性格の強さが顕著に
現れ、後年の資料、参考作品をそのまま使うという盗作問題
を惹き起したその素質が見て取れる。無論、文章に独自の個
性はあるが。

 ともかく『暖簾』で有名になった山崎豊子の二作目で『暖
簾』の翌年発表である。大阪船場の商家の未亡人で寄席経営
に生涯を捧げた「吉本せい」をモデルに描いての成功譚であ
る。まずはめったにない成功譚というべきである。
 
 船場の呉服屋、河島屋の主人、吉三郎は商売がきらいで、
芸人を連れ歩いて茶屋遊びばかりやっている。妻の多加が商
売の留守を守って働いているが、どうにも呉服屋が立ち行か
ない。それほど芸人が好きなら、寄席をやったらどうかと夫
に勧めて天満の潰れそうな寄席を買い取った。夫はのんびり
構えているが、多加は必死で高利貸しの婆辛子金を調達した
り、芸人に媚びへつらって商売を広げてゆく。

 そのうち夫は女を作り、その家で急死する。29歳で若後家
となった多加は息子の久男をかかえ、もう再婚しない決意で
寄席経営に一心不乱となる。寄席の客が立て込めば自ら下足
をとり、芸人には破格の祝儀を出すなど、商売の鬼となって
事業は拡大した。安来節が人気になれば、自分で出雲に出か
け、いい芸人を探し出す。関東大震災ではすぐに東京の芸人
を見舞って、困難だた東京芸人の大阪出演に導く。

 時代の空気、大衆の好みも察知して、新たな芸人を発掘、
エンタツ、アチャコ、春団治など、芸人は実名登場で作品を
彩る。千日前に入場料10銭での漫才専門小屋も建てた。つい
に多加は大阪と東京に27軒もの寄席を持ち、100人以上の芸人
を抱えた。

 空襲で寄せは灰燼に帰したが多加は芸人に貸した金は棒引
lkいし、感謝され、さらに事業を拡大し、芸人から人望を
集めて亡くなった。

 亡くなったのが前述の通り、1955年、昭和30年である。脇
目もふらぬ商売への精進だが、ほのかな恋の話も添えている。
だが何があろうと商売しか頭にはない。子供たちも離れてゆ
く。厳密な事実に基づいているのかどうか、現実の吉本せい
の子供たちは多く早世ばかり、精彩を欠いている。頼りは弟
たちであった。

 ・・・・・・だが小説、文学作品としてみればどうか、文学
の妙味は乏しく、あまりに変化もなさすぎる。多加の必死の生
涯を描くに作者も負けじと異常な熱心さである。文章はだから
力はみなぎっているが、通俗でどぎつい。芸道作品の人情趣味
も確かにあって、大阪商人のケチな拝金主義も入り混じって、
結果は実にあくどい効果を上げているといえようか。大阪人の
体臭が匂うようだ。好き嫌いは出てくるだろう、関東の人には
好まれないかもしれない。

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