林伊勢『兄潤一郎と谷崎家の人々』1978、同じ兄弟姉妹で極端な格差、下足番になった弟、ブラジル移民した妹

まず谷崎潤一郎は芦屋趣味というのか、関西のブルジョワ
趣味に浸った文豪、次男の谷崎精二は早稲田大学を出て英文
学者、小説家、早稲田教授、この長男、次男はあまりに高名
である。無論、谷崎潤一郎と来たら、・・・である。そのお
よそ現実離れのブルジョワ趣味、性倒錯趣味、源氏物語の現
代語訳などの古典趣味、日本の作家の最初のノーベル賞は、
この谷崎潤一郎が候補だった、とは云うが、しかし、七人の
兄弟姉妹、上二人はダントツ、だが残りときたら散々であっ
た。三人が幼くして養子に、潤一郎、精二以外の養子にやら
れなかった残り二人も不遇だった。潤一郎の「母を恋うる記」
などを読もうが真実はわからない。
葛西の農家、叔父の家に養子にやられた妹、林伊勢が最初、
雑誌『新潮』に「潤一郎、精二とその弟妹」を寄稿、初めて
その悲惨な実体が明らかになった。その文章も含め、さらに
新たな随想も加え、『兄潤一郎と谷崎家の人々』林伊勢が九
藝出版から刊行された。1978年のことである。潤一郎も精二
もそのようなことはついぞ表向き語ることもなく、書くこと
もなかった。
収録のまず「潤一郎、精二とその弟妹」は雑誌「新潮」に
載ったものだが、まずは基本となる随想である。
「長兄と私とは、年が十以上も違っている上に、子供の時、
わたしは叔父の家に養女に出されていたので、若い頃の長兄
についてはあまり知るところがない。・・・・・私がこのよ
うな文性を書くのも、幸福で満たされていたとはとても云え
ない私たちのこれまでのことを書くのであり、おそらく人に
は全く知られていなかった長兄や次兄の一面を知っていただ
きたいと願うからに他ならない。しかし、ありのまま、書こ
うとすれば、どれもこれも伏せておきたいことばかりで・・
・・・」
「運命という言葉が当てはまるなら、私たち兄妹ほど数奇
な運命にもてあそばれた兄妹はいないだろう。七人兄妹で、
三人までが他家に養子にやられ、それが皆、不遇の極みに堕
ちた。その理由が、母に乳が出なかったこと、家運が傾いた
ことによるというが、世の中には乳が出ない人など沢山いた
し、家運が傾いたといてt,私たちより貧しい人はいくらも
いた。よくよくのことがない限り、子供を何人も手放す人は
そういないだろう。・・・・母は娘番付の大関に座らされたり、
最後の浮世絵師のモデルにされたとか、美人だったが、ご飯も
満足に炊けず貧乏のどん底でも女中一人手放さなかった。
・・・・・私は下から三番目だった。母は子持ちだったが、乳
房は男同然で一人の子にも乳は出なかった。長兄、次兄の頃は
まだ家は豊かだったが、・・・・・・」
「葛飾の農家の養子にやられた私は、小学二、三年の頃、
表で遊んでいたら、葛飾では珍しい大学生が二人通りかかった。
一人が私を見るなり『お前、お伊勢だろ』といった。私は恥ず
かしさで真っ赤になって家に飛び込んだ。・・・・・養父母は
大喜びで長兄らを歓待し、私の成績表を持ち出してみせたりし
、しきりに私の自慢をした。長兄は黙って私の成績表を見てい
たが、そのうち私に向かって『先生はお前を贔屓しているんじ
ゃ内科』と、私は非常に心外に感じた・・・・・」
長兄の潤一郎と次兄の精二は性格は対照的、いい加減で乱雑な
潤一郎に対し、精二は万事、きっちりしていた。常に温かい励ま
しをくれたのも精二だった。林伊勢の夫は事業にも失敗、やむな
くブラジル移民、さりとて農民ではないから自由渡航者として、
その後の苦難は語り尽くせないという。
「ブラジルに来てからも、次兄は人しれぬ苦しみを味わう私に、
絶えず励ましの手紙をくれた。その手紙に『お前は良い素質を持
って生まれてきた。だがその半生は不幸だった。でも私は正道を
あるき続ける者に不幸な末路があったためしは聞かない』と書か
れていた。次兄の手紙には、異郷の地をさまよう妹の私への励ま
し、慰めのあたたかい言葉に満ちていた。どんな苦しいどん底で
も、涙も枯れ果てた私が生き抜いてこられたのは、次兄の手紙の
温かい励ましだった。次兄の手紙を唯一の指針としてその日を私
は生きてきた」
その後は兄たちからの送金もあったが帰国は出来ず、離婚し、
新たな夫と結ばれ、一男二女を得て、孫たちに囲まれ、平和な
晩年を過ごした、・・・・・・
だが石川達三とのエピソードは重要である。
幸福に暮らしている時、ある人が林伊勢を訪ねてきて「これを
お読みになりましたか、あなたのことぉ書いていますよ」石川達
三の『心に残る人々』という一冊だった。ブラジル移民を描いた
『蒼氓』で第一回芥川賞の石川達三だが、・・・・古い出来事だ
ったが、・・・・・伊勢さんは必死でページをめくった
石川達三はサンパウロの旅館の食堂で邦字新聞の記者と碁を打
っていた。日伯新聞の記者だった、ようだが、その記者は石川に
向かい「本当だよ、日本から亭主とブラジルに来て、こっちで別
れて」
宿泊客と合わないように主人に頼んでいたが、私は炊事場から
石川氏を見たように、石川氏は炊事場の私を記者から聞いて覗い
た。それは私の一番惨めな時期だった。そこには惨めな私がいたは
ずだ。過去は消せない。石川氏はでも信じられなかったようで、
あの文豪の妹がブラジル三界の宿屋で炊事婦などするなどあり得な
いと、石川氏は早稲田教授の次兄の精二の教え子でもあった。
石川達三がその後、精二と会っての会話
精二先生は
「君、会いましたか」
「はい、見かけただけです」
「そうですか、会いましたか、・・・・・どうも、帰ってこいと
送金もしたんだが、女はやはりおとこしだいなかな」と精二先生は
憮然として言った。やはり本当だった、同じ親から生まれても、人
生の幾山河を超える間に、まるでにても似つかぬ境遇になってしま
うと、思い知らされた。
石川達三のさらなるエピソード、養子にやられた弟のことである。
やはり『心に残る人々』にある。
昭和32,3年頃か、1957~1958年ころ、石川氏がある用事で和歌山
にうって新和歌の浦Bという旅館に泊った。
「或る午後、私は旅館を出ようと玄関で車を待っていた。する
と部屋付きの中年の女中が私に囁いた。
『先生、そこの玄関に年寄りの下足番がいるでしょう、・・・・
あの人、谷崎潤一郎の弟だそうですが本当でしょうか』
私は振り返って見た、愕然とした。潤一郎はかなり太って、丸顔
で背丈は高くはない、だがその下足番は痩せて背が高く、猫背だっ
た。潤一郎と体つきがまるで違う、然し谷崎精二先生が、ふらりと
現れたと錯覚するほど似ている、寸分違わない。
・・・・・今もその真偽は確かめていない。東京下町からなぜ和歌
の浦に、その道筋もわからない。」
しかし、この下足番の老人は潤一郎、精二に続く三男であった。
同じ兄弟姉妹でもあまりの落差、亭主とブラジルに渡った妹
は結局は幸福な晩年を迎えた、だが三男の下足番の老人は救い
うがない。
谷崎精二

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