サマセット・モーム『作家の手帖』、仏独露などの欧州の作家に比べ、格の低さを感じてしまう

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 モームは云うのだが「我々は誰でも、いつの日にか役立つよ
うないいアイデアや、生き生きとした感覚を持つが、それを書
き留めておかないから、、それらは逃げ去ってしまう」と18歳
、1892年から1941年に至るまで、、まめに書き留めていたもの
をまとめた作家のノートである。いたってそれ自体は平凡な心
がけである。

 だがモームの内面生活を反映したこのノートは実に多彩であ
り、充実しているともいえる。

 「読書は人を聡明にはしない、ただ教養ある者にするだけだ」

 「世間の連中が、諸君の言葉を信じるのは、諸君が自分自身
を貶したときだけだ、そして諸君が一番つらい思いをするのは、
彼らがその言葉を信じるときだ」

 「女がいかに身持ちが悪かろうと、その女が美人でなければ
大して効果もない」

 これらを読んで、含蓄ある言葉、警句と思えるだろうか?私は
さほどでない気がしてならない。

 1908年には』モームは戯曲『フレデリック夫人」で一躍、劇壇
の寵児となった年だが、「成功!それが僕に何ラカの効果をもた
らしたとは思えない。一つには、それを予期していたこと、それ
が来たら自然に受け入れただけである」本当に面白くない、言葉
である。

 1916年にモームはハワイからサモア諸島、フィジーなどを旅行
する。現地住民の風俗、習慣に接しての記述がある。

 1917年、モームはある秘密の任務でロシアに派遣される。この
年のノートにはロシア文学についての独自の感想が豊富に盛り込
まれている。モームはドストエフスキーを高く評価していた。さ
らにツルゲーネフも「純粋に一筋の作家である」と尊敬もしてい
た。「ロシアの生活、またはロシアの生活に入ると、そこには厳
しい罪の意識が大きな場所を占めている」、「僕はロシアの小説
で登場人物で誰か一人が絵の展覧会に行くなどとは一篇も考えら
れない」

 1922年から1923年にかけては、ニューギニアからボルネオ、
中国、マレーシア、ビルマなどを探訪した。作家の目でかなり
観察しているようだ。

 作家のノートだから将来、作品の執筆に役立てようという、
ことで興味あるエピソードが収められている。例えば「死刑の
執行は日曜にはやらない。もし二人以上が断頭台にかけられる
なら、罪の軽い方が先に執行される。彼は死刑の恐怖を味わう
時間が少なくて済む」

 文学談義もある。「芸術とは仕事の合間の休み休みに飲む一杯
のビールのようなものだ。あるいは生きる苦しみを暫し忘れる
ために娼婦が飲むジンである。芸術のための芸術とはジンのため
のジンということだ」、

 「作家は羊の肉がどんな味であるかを書くために一頭の羊全部
を食べる必要はない。カツレツ一枚で充分だ。その程度は必要だ」

 人生論的なノートも多いようだ。67歳までのノートであるから。

 「感傷は人を逆撫でにし、苛立たせるだけの感情だ」

 「宗教家がなぜ常識を神の属性とみなさないのか、不思議だ」

 だが正直、モームの作品からも感じるが、正直言って欧州の、
ロシア、ドイツ、フランスなどの作家に比べ、、私はモームの
格の低さを感じてならない。この本も素晴らしい含蓄だ、とは思え
ないのである。私だけであろうか。

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