石母田正『平家物語』岩波、唯物史観で解明、史学と文学を混同している

年だ年
 扇谷正三さんがかって旺文社新書『わが青春の日々』で
石巻中学時代にその上級生だった石母田正にういて述べてい
る箇所があった。「秀才で吃りの噂の高かった石母田正さん
、夏休みに父親に命じられ、東京の矯正所で治し、弁論大会
で『西郷南洲を思う』を堂々と弁じた」旧制高校も扇谷正三
とおなじ旧制二高(仙台)、既に左傾化、論文らいしきもの
を雑誌に投稿して警察に目をつけられたが、父親は「息子の
思想には干渉できません」とか書いていたと記憶している。

 扇谷さんの記述の通りで石母田正は転向もせず、一貫し、
左翼、東大国史を出ても転向もせず、史的唯物論で全てを分析
、解釈という方法論をを貫いた。戦後は日本共産党と関わりつ
づけた。

 ともかく唯物論者(マルクス主義者)、は史的唯物論で全てを
分析、解釈することは云うまでもない。国史学科卒だから、古典
文学にも造詣は深い、はずである。「平家物語」を史的唯物論で
解釈っすればどうなるか、でらおう。

 初版は1957年である。

 今日まで結果的に伝えられている「平家物語」は最初に書か
れたもの、に比べ、遥かに大規模なものになったという。それ
は後から幾多の人によって幾多の文章、挿話が付け加えられた
からだという。

 徒然草では信濃前司行長作だというが、最初の「平家物語」と
はどのような構成、内容だったのか、石母田は様々な方法で推理
する。その最も有力な手がかりで、本文中に繰り返される年代記
風の記述に目をつける。さらに、その文体の類似点を調べていく。
その分析で「平家物語」の原型が、三巻か六巻の年代記的叙情詩
であったろうという。この部分は妙に説得力がある。

 このように石母田は「平家物語」の原型を推定するが、その立
場で文学的価値を評価する。そこでま

 「物語は読者にとって日常体験できない世界に連れていっても
らうために必要なもの絵あった。したがって虚構が要求された。
読者は物語によって虚構された世界から、現実を眺められるよう
に習慣づけられる。しかし、事実そのものの迫力によって圧倒さ
れる内乱期の人たちには、もはや作り話は必要ではなく、事実そ
のものが要求される時代であった。断片的、記録的なものを文学
に高めることが読者の文学に対する新しい要求となった」

 これが石母田流の文学作品が生まれる過程というらしいが、あ
る意味、非常に現実離れした雑な論法というべきだろう。原因の
救命を文学の立場からではなく、いわゆる歴史学の方法をそのま
ま適用したかのようだ。

 それでは「平家物語」は何を物語ろうとしたのか?

 「人力の及ばない運命の支配を信じる時代の思想的背景の上」
に書かれた作品だといって

 「運命が人間を支配し、その未来を予定するという考え方は、
必然的に悲哀の情緒が伴う。そして悲哀感を基調としない叙事詩
はない」だから

 「平家の滅亡の悲歌という形以外の仕方では、この時代の叙事詩
はあり得なかった」

 さて、それなりの論法、非常に理詰めのようだが、全く筋違いの
的外れという気がする。

 つまり最も大事なものが見落とされていおるのではないか。それ
は平家が栄華から一挙に滅亡というその劇的な事実、そのことへの
作者の精神的な感動である。文学の方法と、史学の方法を混同して
はならない。吉川英治「新平家物語」を読むと分かる部分がある。
吉川英治を引き合いに出しても石母田なら鼻で笑うだろうが、文学
と史学の混同という基本的な誤りを犯している。いかに理詰めでも、
結論は全くおかしいのである。

 当時の政治上の怪物、後白河法皇や源頼朝を「平家物語」は全く
描ききっていないという。石母田はぬけぬけとこう書いている

 「後白河法皇や頼朝を描き得るのは近代の散文学のみである」

 これは叙事詩とか散文学か、などというものではなく、さらに根
本的な問題なのだ。時代の思想に肉薄しないと判然としない。これ
は史学の問題だろう。それを石母田は明らかにスべきだったが、そ
の本質を素通りしたのではないのか。史学と文学の混同が顕著である。


   石母田正

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