総連内反対派を処刑場・北朝鮮に「帰還」させた総連議長・韓徳銖の深謀
なぜソ連はさして闘争歴ない金聖柱という若造を伝説の
抗日運動の闘士「金日成」の名前を与えてリーダーに抜擢し
たのかという疑問、つぎになぜ金日成は総連トップに、やは
り闘争歴もろくに無く文章も書けない小者の「韓徳銖」ハン
ドクスを日本国内の朝鮮人運動のリーダーとして選んだのか、
共通しているのは「実質、見るべき闘争歴」はない、「文章
は書けず全て代作、代筆」!、さらに決定的なことは自らの
の絶対権力を維持するために手段を選ばず反対派を粛清する。
朝鮮民族運動は日本共産党指揮下にあった。だが朝鮮戦争の
頃、日共は無謀な火炎瓶闘争に走って徹底した取り締まりを
受け、大打撃を被ったが朝鮮民族運動も一蓮托生、だが日本
共産党は容易に朝鮮民族運動の主導権を離さず、「共産党
民族対策部」が仕切ろうとした、日共と金日成の対立から、
女性工作員、南信子の仲介もあって韓徳銖は密航船で北に渡
って金日成と会談、以後、国内の民族運動は日本共産党から
離れるという「路線転換」が行われた、1955年である。保守
合同の1955年、55体制とはいいうが、ここでも「55体制」が
あった。
で、1959年から最初は熱狂的な北朝鮮帰還運動が行われた。
日本での将来に絶望し、大マジで帰還(北送、ほぼ全ては韓国
が故郷であった)したが、韓徳銖は総連内の反対派を日共の民
族対策部、民対派として北朝鮮を流刑場、さらに処刑場とする
ことを考えた。金日成は急ピッチで強制収容所を作り上げてい
た。総連内の反対派を片っ端から「帰還」させ、収容所送り、
惨殺とした。
・・・・・以上は誰でも知っている常識だろう。では総連内
の韓徳銖支持派が帰還した場合、収容所送りは免れたのだろう
か?
実は韓徳銖支持派も容赦なく強制収容所に理由をこじつけられ
て送られていたのだ。帰還した以上は帰還者は全て「危険分子」
扱いだから収容所送りとなる。命はない。
韓徳銖は総連内の「民対派」を続々帰還させ、収容所送りとし
た、・・・・・・だが親韓徳銖の帰還幹部も運命は同じだった。
要は帰還者は危険分子なのである。金日成も最初はヒト、金を欲し
た、金はいつになっても欲しかったろうが、帰還者は徐々に全て、
抹殺されるべき危険分子という方向に変わるまでさほど時間はかか
らなかったのである。それでも帰還は1980年すぎまでほそぼそと続
いた。
映画「キューポラのある街」は評価の高い映画だそうだが、北
に帰還する少年がでてくる、その行く末を考える人は多くなかった
だろうが、よくて最下層に位置づけられた貧民でしかない。
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