武林無想庵『むそうあん物語』1957,盲人となった夢想庵の生活の書


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 まず武林無想庵とはいかなる人物かを知らねばならない、
これは概略は簡単に知り得るが、まことに個性豊かと簡単に
云って済まされる人間ではない。二番目の妻と欧州へ、この
妻の話だけで、私も以前、ブログで述べたが、興味は尽きな
い。だが、・・・・・帰国後は日本とどうも波長が合わなか
ったものだ。

 無想庵は1933年だそうだが、パリの病院で右目の手術、緑
内障の手術を行い、失敗に終わったようで結果は右目は失明
状態となった。「目尻に何の役にも立たない一縷のかすかな
明暗線だけを残した明きめくら」となって帰国、その後、数
年もしたら左眼も悪くなってしまったが「それでも、どうに
か、曲りなりに読み書きはできた」というのだが、1943年こ
ろには左眼も見えなくなってしまったという。だが無想庵は
「自伝とも小説ともつかぬ、いわば生活の書というべき創作
をまとめ上げたい」という考えを以前から持っていて、その
計画をどうにも諦めきれず、家人に口述筆記させて仕上げた
という。

 刊行次点で75歳になった盲目の無想庵、「その時々におか
れた生活条件を反射しつつ、何を目標とし、何を吸収し、何
を排泄してきたのか、またしつつあるのか、そういうあらゆ
る思想の遍歴過程を探究し、批判したいためなのです」

 この本はまず、最初辺りに、札幌に生活した幼年時代、そ
の後、東京の番町小学校の思い出、実父母、養父母、友人な
どについて述べ、開拓時代の北海道や鹿鳴館時代の東京の様
子が描かれている。養父はロシアの海軍士官から習った写真
術で身を立て、東京に出て無想庵写真館を開いた、という。

 やや特殊な人名が多くでてきて、しょっちゅう様々な服装
で写真を写してもらいに来た島田三郎夫人、戦時中の小磯国
昭、陸軍中将の仙波安芸二、満州国宮内大臣となった入江真
一などの同窓の友人、珍しい話には違いない。

 「あとがき」で辰野隆が無想庵に出会った印象を述べてい
る。「既に過去のイマージュのみを眺める眼になっているの
は如何にも寂しいが、その時々の巡り合わせを甘受している
氏の態度語調には、寂しさ以上の安らぎが感じられる」

 物を書くことが命だった人物が盲目となった悲歎は想像を
絶するだろうが、この本は基本的に辰野隆いわく「動物的よ
リ植物敵」というのは分かる。

 また丹羽文雄も「あとがき」を書いているが無想庵が丹羽
文雄にかって云った言葉「海外に長く滞在は危険です。私も
その犠牲者です、半年間くらいでも日本を離れたら日本の歩
みから遅れを取ります。取り返すのは至難です」世界最先端
と思えるフランスでも、と思えて意外である。

 刊行後、「自伝を書こうとしても、といって現状は自分で
かけるわけじゃないのですが、思い立ったのはこの新宿の家
が出来てからです。妻の朝子に書いてもらって、でもうまく
喋れず苦労しました。僕は日本で本を出したことはあまりなく
て、朝子の長男に頑張ってもらって、また青野季吉くんが尽力
してくれて発起人となっていただき・・・・・」だそうだが。

 モナコ時代の文子と無想庵

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