武田泰淳の妻、武田百合子語る泰淳の人間像
さて、武田泰淳、1912~1976,明治の最後の年(その年の残
りは大正元年)に生まれた武田泰淳、享年64歳だった。俗に第一
次戦後はともいわれる。私は中学生の時、「森と湖のまつり」
を読んだが、妙な話だが「コタンの口笛」と混同してしまった。
作品としては、中学生から見ても非常にギクシャク感というの
か、長編には違いないが小説としてはちょっと、・・・・とい
う感想を持った。むしろ評論がなかなかいいと思ったものだ。
さて武田泰淳が1976年9月5日に亡くなり、当時の文芸雑誌が
その後、武田泰淳の追悼の特集を行った。その特集記事で、意
外なエピソードが明らかにされた。例えば、開高健は武田泰淳
が戦時下の上海で、殺人を行ったのでは、という噂の真偽を堀
田善衛に尋ねたところ、堀田善衛はそんなことは絶対にない、と
否定したという。さりながら、ひのないところに煙も立たないわ
けであ有る。殺人と云って戦闘行為に付随したものではないから
こそ、噂になったわけだ。娘の武田花が母親の武田百合子の死後、
父の残した膨大な資料を日本近代文学館2起草したが、従軍日記も
含まれていて、泰淳自身、日記で殺人行為を行ったことを記して
いたと云うから、噂がやはり正しかったのである。
またさらに別の謎、女性関係であり、武田泰淳と堀田善衛をめ
ぐる「五角関係」について、第一次戦後派の祭司ともいうべき埴
谷雄高がそれについて証言しているという。手元にその雑誌がな
いから内容がわからないが。
そういうなら名夫人、というのか武田百合子さんが語る泰淳の
人間性、泰淳像もこの作家の影の部分である。当時、文芸誌で
深沢七郎とも対談をされているが、広大で重厚なイメージの作家
におよそ似合わない子供じみている泰淳像が語られている。同時
に陰の部分を支える妻の役割の置きさを考えさせる。
遺作となった「めまいのする散歩」も夫人の口述筆記であった。
それ以前から病身であり、夫人の運転の車に乗って移動しなければ
ならず、大岡昇平が自嘲的に云う「運ばれた亭主」だった。文字通
り、夫人は作家の目であリ、手であり、杖であったようだ。目がく
らみ、夫人の腕に倒れかかったとき、(死ぬ練習だよ」とつぶやいた
という。哀切ではある。
文学研究誌「解釈と鑑賞」が「文学における妻の投影」という特
集を組んだが、武田百合子さんはその大きなウェートを占めていた
という。武田泰淳は生前、日本の私小説的風土、文学土壌をおおい
に嫌っていたと云うが、実際、夫人の語る私小説的部分はやはり、
非常に重要だということだろう。
この記事へのコメント