丸木俊子(丸木俊)『生々流転』1958,「原爆の図」の由来記と半自叙伝
丸木俊子名義だが、1957年から1964年までであり、その後
は丸木俊、夫は丸木位里。丸木俊1912~2000,女子美術学校
卒、東松山市に丸木美術館があり、今日も混んでいる、という
ネット情報である。『生々流転』は「原爆の図」由来記である。
同時に半自叙伝ともなっている。
北海道の農村の寺に生まれた著者、丸木俊子、1964年以降は
丸木俊だが出生名は赤松俊、1957年までは「赤松俊」という名
前で活動だから、「俊」と「俊子」、「赤松」と「丸木」の組
みあわせとなる。子供時代は快活な少女であり、小学校の絵の
展覧会に父親の助けも借りて出品した絵が、小学三年にしては
出来過ぎで親に描いてもらったのだろうと云われて発奮し、絵
に志したという。
「もし私が大きくなって本当に立派な絵描きになったらどう
だろう。あのときの絵はやっぱり俊ちゃんが描いたと思ってく
れるに違いない。私は黙って唇を噛んで絵を見上げていました。
そうして絵描きになる決心をしたわけです。でも成長につれ、
この決心は何度もゆらぎました。でもあの時、火のように恥ず
かしい思いをしたのが画家になる不動の気持ちを作りました」
とまあ、動機は変わっている。高女時代に生母を失い、新し
い母を迎え、大人びた少女となり、18歳の時、ひとりで北海道か
ら上京し、女子美術専門学校へ、一学期は無事に過ぎたが二学期
から父親からもう学費が続かないと連絡、一旦、戻った。女書生
の口があるとある材木商の家を尋ねたら、番頭が東京に行くから、
いっしょに連れて行ってもらえ、と再び上京。その番頭の怪しげ
な振る舞いに驚き、友人と二人で下宿を探し、自炊生活を始めた。
上野公園の山下で該当の似顔絵描きを始め、周囲の応援も得た。
女子美術を出て小学校の代用教員に、生徒からは慕われ、信用
も確立、然し画家としては落選が続き、失望の日々。四年が過ぎ、
モスクワの大使館、一等書記官の子供の家庭教師をしてほしい、
ソ連に行ってくれと頼まれ、気軽に引きうけて出発、帰国して
滞在中の作品展覧会を開いた。届け出に行くと、モスクワ帰りと
聞いて警戒されるが大使館関連として事なきを得る。
画家として独り立ちし、自由に生活し、絵に打ち込む、暴風雨の
摩周湖、失恋、南洋への旅、丸木位里との恋愛、再度、今度は大使
の令嬢の教育係でモスクワへ、帰国、結婚、戦争、原爆の日、夫の
郷里の広島行き、そこで見たもの。
戦争が終わり、夫と二人で「明るい健康な日本人を描きたい」と
思うが、どうも明るい顔の日本人が絵に描けない。モデルの青年、
娘の「無意識の、拭い去れない、心の傷が自然と絵に出てしまう」
「明るい顔の日本人を描くなら明るい日本を作らねばならない。なら
この暗さを、その暗さの由来を描かねばならない、そのげ原爆投下さ
れた広島の姿ではないのか、と思い立ったのは原爆投下から三年後の
夏の日の夜」だった。

ここから意を決して原爆の絵を描き始めた。夫と二人で。それが外
国でも展示され、外国に出ている間に、夫の老母の横死があった。老
母も原爆の絵を描いていたが出入りの青年に殺されたのだ。
半自叙伝だが成功譚ではない。淡々とこれまでの人生の荒海がいか
なものだったか述べている。別に天才少女でもない、人からは放浪癖
のある変わり者くらいにしか思われなかったが、実は手堅く生き抜い
たのでらう。飾りっ気もなく、イヤミもない。自慢話もない。本当に
抵抗なく読める半自叙伝である。
終戦後の丸木俊子、その後の丸木俊
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