荻原井泉水『創作・おらが春』1961,一茶の煩悩部分を捨て去って無味乾燥に

自由律句の巨匠、『層雲』の主宰者、荻原井泉水が一茶を
どう描くか、ちょっと興味がある本である。「日本の古本屋
」サイトでは数多くの出品があるかた入手はしやすいと思う。
「おらが春」はタイトルはよく知られている、が内容は?
文政二年、1819年正月から十二月まで、自分の周囲に起こっ
たことについての感想を日記風にしたためたもの、おおむね、
随筆と俳句から成る。句で云えば「めでたさも中位なりおら
が春」を巻頭に据え、結びは「ともかくもあなた任せの年の
くれ」である。
で、荻原井泉水は『創作・おらが春』を自由律句の巨匠らし
く、自由な人間像を描ききったか?『おらが春』をベースにし
て『八番日記』を参照しているという。『創作・おらが春』も
一年間の一茶の姿、57歳の一茶を描いている。
一茶は小説化されやすく、藤沢周平、田辺聖子さんなども
書いてしれぞれ、なかなかの佳作であると思える。自由律句の
主宰者敵立場の荻原井泉水が書くとどうなったか?
文政二年、1819年というとその二年前に郷里の柏原に帰っ
てきた一茶にとって安定した家庭生活が予想されていた年で
あったはず。その前年、妻きくとの間に生まれた「さと」と
いう娘も二つの春を迎えるはず、・・・・だがこの子も六月に
痘瘡でか、死んでしまった。他にこれと行った事件、出来事も
なく、近在の門弟や俳句仲間と往来し、わりと落ち着いた俳諧
生活だったようだ。この一年間の一茶の心境、生活を本書は描
クものだが、ときに応じて過去の回想も織り込んでいる。
創作というから創作的にを期待するが、どうも小説家のよう
にいっていない。
「創作として書く以上は、もっと自由に大胆にと、フィクシ
ョン化したほうが面白いものが出来たはずだが、昨今、だいぶ
ん通俗的なイメージに染まっている一茶という人間をできるだ
け性格に彫り上げてみたかった」と「あとがき」にある。
もとの『おらが春』のほうが実は虚構も交えていて創作的だ
が、『創作・おらが春』は逆に事実に閉じこもってしまった。
執筆の意図が、一茶にまつわる「通俗的なイメージ」を払い
のけて、著者自身のイメージを描こうとしたようで、一茶の心
境の推移も新解釈をみてほしい、ということのようだった。
だから、どうした?だが、つまるところ、煩悩の人、我執の人
mという一茶のイメージに対抗し、「仏の大慈悲」に導かれ、信
仰の安住の地に辿り着いた人間、一茶を描きたい、ということで
あったようだ。でも、これも全くの新解釈でもなさそうで、そう
した心境も『おらが春」に綴られているそうだ。
同時にまた、もう過去のはずの義弟や継母との確執の怒り、不
快感を繰り返しているところからも、「ともかくもあなた任せ」
の信仰であったようだ。『おらが春』には運命に従おうという仏
教信仰と、不幸だったその人生への慟哭、絶望と幻滅という煩悩
の人一茶の人間性が入り混じっている。
『創作・おらが春』はその我執の部分を潔く切り捨てたという
感じで、人間臭が希薄、結果、妙にわかりやすくもなったが、結
果『創作・おらが春』は『おらが春』よりはるかに面白くないも
のになってしまった。これでは不人気本にならざるを得なかった
はずだ。一茶がそんなきれいごとで割り切れるはずはないだろう。
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